問答形式・・お母様に対する決定的な御言葉を語る前は・・比喩と象徴で語られていた
お父様がメシヤとして顕現したのは何時だったのか?
1945年の時と1992年の時の二度だった。
何処に迎えたのか?
一度は1945年の世界代表のキリスト教に、二度目は1992年の世界代表の統一教会に迎えた。
「メシヤを迎える基台」はできたのか?
「信仰基台」はできても「実体基台」ができなかったのだから、「メシヤを迎える為の基台」は喪失した。
そんなこと聞いたことがないのは何故か?
お父様が真の愛のお方だからだ。真の愛は失敗を決して責めることなく、反対にその失敗をカバーしようとされる為だ。だから、御言葉が抽象的になってしまうのはその為だ。イエス様が十字架の死の時も同じだった。
それでも摂理が前進してきた理由は何か?
お父様ご自身の精誠と、お父様の氏族、第一夫人と聖進様、喜進様、恵進様、興進様はじめお母様と子女様を犠牲にされて乗り越えられたからだ。身内を犠牲にしたことを隠すことだが真の愛だからだ。
それでは、お父様はあからさまに語れなかったということか?
そうだ。
1992年の16万人女性訪韓修、1993年の男性訪韓修の御言葉の多くは、比喩と象徴で語り尽くされているから、その真意を理解しいている者はほとんどいないと言ってもいい。
そればかりではない。お父様が聖和されるまでの御言葉の重要な内容のほとんどは比喩と象徴で語られている。
お父様が隠さずに、あからさまに語っている御言葉はないのか?
ある。
それはどのような御言葉か?
洗礼ヨハネのような人物が実体基台を造成するにおいて、取り返しがつかないという完全に失敗した時だ。
例えば、洗礼ヨハネの失敗が取り返しがつかない時に語られた御言葉がそうだ。「あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい」(マタイ11:11)とあるように、お父様も洗礼ヨハネと同じ使命を持ったお母様の失敗が決定的になった時に語っておられる。その記事が次だ。
失敗を覆い隠すはずの真の愛なのに、どうして、この様な決定的な審判とも言えることを語られたのか?
この不信によってイエス様もお父様も地上から姿を消すことになってしまうためだ。その為に、摂理の痕跡を残さなければならないことから、最後の最後に、この様な御言葉を残されたと考えるのが原理的だ。
それが何故、真の愛につながるのか?
その決定的な痕跡を残す御言葉の代わりに、イエス様は十字架の死で一切の責任を負われ、お父様は聖和によってご自身の生命をサタンに差し出されて、一切の責任を負われたからだ。
その様な御言葉があるのか?
ある。
イエス様は裏切るであろうユダを友と呼んで、「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)と語られ、お父様は《 怨讐を愛せよ 》という御言葉を沢山語られている。
決定的な御言葉を語る以前の御言葉はどのような御言葉なのか?
それは、洗礼ヨハネの立場に立っていた人物たち(お母様、分捧王たち)が、まだ、信仰を立て直すチャンスが残されている時であり、人間の責任分担に対して不干渉の原理により、あからさまに語ることができない。その為に、イエス様もお父様も比喩と象徴で語られたということだ。
それで理解できるのか?
いや、できない。
一層理解困難になってしまった。だから、イエス様の晩年の姿と御言葉も、お父様の晩年の姿と御言葉も外的には弱弱しく意味不明だった。
そして、イエス様が捕らわれて死ぬのも、お父様が肺炎で死を急がれるのも、自ら求めるように見える為に、決して、弟子たち、幹部たちの責任ではないように思えるのは真の愛だからだ。だから、イエス様の死もお父様の聖和に対しても、誰も自分の責任だとは思っていない。
その為に、誰も死の真意を理解することができなくなってしまった。
更には、天の一番悲しみは、共に歩んだ者の中から、この様なイエス様とお父様に石を投げる信徒たちがいることだ。
この為に、多くの信徒たちがお父様を理解することができなくなってしまったということか?
そうだ。
洗礼ヨハネ的人物に対する決定的な言葉は、信徒たちを大混乱に陥れるのではないか?
そうだ。
しかし、これが真の愛の姿なのであり、ここに全家庭連合の大混乱がある。
どうすればいいのか?
比喩と象徴で語られた御言葉を原理基準に沿って翻訳することが必要だ。
再臨主こそが、比喩と象徴で語られた御言葉を明らかにすると語られているのだから、比喩と象徴が何を意味しているのか、これを原理と御言葉から検証することが必要だ。
それは可能なのか?
可能だと思うしかない。その前提で取り組んでみることだ。方法はいろいろある。