希少な御言葉・・・アブラハムの典型路・・・お父様とお母様の愛の十字架が見えてくる御言葉
文鮮明先生のみ言集 訓教経(下) (2000年書籍)
17.1971人間の価値と天国の起源 一九七一年十一月二十一日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第五十一巻』
では皆さん、「初臨主(=1945年のお父様)」が良いですか、再臨主(=1992年のお父様)が良いですか。初臨主が良いでしょう。」(※1)「仕方がなく二番目の妻(=韓の母様)をめとるようになった。(※2)(お父様が韓の母様と)婚約をしようとしたけれども、みな線を引いてしまい、やむを得ず二番目にした」と、それが良いですか。
(※3)二番目の結婚をする人は、最初の愛の(神様とサタンが交差する)十字架を越えなければなりません。
(※1)「仕方がなく二番目の妻(=韓の母様)をめとるようになった。」とは何を意味しているのか。
この「二番目」とは第一夫人に対してお母様が「二番目の妻」になることを言っているのです。
(※2)「婚約をしようとしたけれども、みな線を引いてしまい、やむを得ず二番目にした」とは一体何を言わんとしているのか???
ここでの「二番目」とは上記の(※1)の「二番目」とは意味が違います。鍵となる言葉は「婚約をしようとしたけれども」という言葉です。この御言葉の文脈からして、これは《 アブラハムの典型路 》であったことを伺わせる内容です。蕩減的観点からしても、「アブラハムの典型路」以外にないと言える言葉です。
それでは、この御言葉を「アブラハムの典型路」の観点に立って読めばどうなるだろうか。
お父様は婚約をしようとする17歳のお母様を天使長的人間に差し出された。そして、この時に、何も知らないお母様は天使長的人間と関係することが「良し」と錯覚してしまったと考えられる。それが、「みな線を引いてしまい」と語られている。つまり、「一線を越えた」ことをあらわしている言葉であり、関係して堕落したことをあらわしている。そのようなお母様とお父様が初夜を迎えることを「二番目にした」と語られているのです。
(※3)「二番目の結婚をする人は、最初の愛の(神様とサタンが交差する)十字架を越えなければなりません。」とは一体何を言わんとしているのか???
一番目の《 第一夫人 》との結婚はサタンが侵入して離婚となり、第一夫人は堕落したエバの立場に立った。この為、二番目の韓お母様は第一夫人よりも上から出発することはできないというのが蕩減基準になります。つまり、韓お母様は堕落した立場から出発するのか、或いは、堕落に打ち勝った立場から出発するのか、このどちらかになるはずです。
韓お母様は原理講論の《 アブラハムの典型路 》に記されているように、蕩減原則からしてもこの問題を避けて通ることはできませんでした。その為、お父様とお母様の「二番目の結婚」は神様とサタンが交差する十字架を越えなければならないことを言っているのです。
先生とお母様が「アブラハムの典型路」を蕩減する立場に立って、お父様が善悪の判断がつかない17歳のお母様をサタンに差し出し、お母様がサタンと関係して血縁を持ったとしても、お父様はお母様と結婚して神様とサタンの血を引く中間位置、つまり、神様側になるかサタン側になるかという分水嶺に立つ14人の子女様を産んだことになる。
これは何を意味しているかです。これは、お父様の摂理に対して、お母様と子女様が少しの不信でもするなら、たちどころにサタンがお母様と子女様を奪っていくことを意味していると言えるのです。事実そのようになったのです。もちろん、祝福家庭もお父様を父としていますから逃れることはできません。
お父様は「アブラハムの典型路」によってお母様が堕落した問題を放置することはできません。お父様もお母様も、これを蕩減しなければなりません。つまり、堕落したアダムをカインとアベルの二つに裂いたように、エバをレアとラケルという二つに裂く摂理が必要になったのです。それがお母様が最も苦しんだ《 妾摂理 》であったのです。このような《 蕩減の操縦士 》はお父様以外臨むことはできません。
この「妾摂理」が《 非法的要素 》ゆえに、お父様は堕落したアダムの立場に立たれたのです。
六千年前のエバがアダムを堕落させ、その後、堕落した人間を繁殖させる出発となったように、二番目のお母様の「アブラハムの典型路」による堕落問題は、この為、お父様と第三イスラエルがサタンに翻弄され続ける運命的問題となり、最後は、お父様の聖和につながったのです。
しかし、このような運命的問題を抱えながらも、共産主義と戦ってソ連が崩壊するというような世界的な事件が生まれたのも、文先生が《 天宙史に残るお方 》であったからであり、それ以上に、お父様の聖和によって、《 お母様の主管性転倒 》によって、お父様の総蕩減が完了してアダムの再創造の基準が完成したのです。つまり、お父様は《 相対を失う 》ことにより死を迎えなければならない立場になったとしても、その死に対してサタンが介入できない勝利基準を立てられたのです。
その勝利基準により総蕩減が完了したことは聖和の21日前に成された《 最後の祈り 》から分かります。つまり、お父様が自ら死を主管されて死を供えられた聖和により真のアダムという《 絶対主体が生まれた 》のですから、お母様が真の相対となることは時間の問題となったのです。
(御言葉のつづき)
それゆえ来られる主は、初臨主が失敗した愛の十字架を越えて、天の前に勝利した立場に立たなくてはならないのです。(お父様が勝利された時が40年サタン分立路程路程を終えた1992年の真の父母宣布の時だった。)
それゆえ十字架で亡くなった主が再び来る(1945年、お父様が来る)時には、栄光の姿で来ることはできないのです。十字架の道に来られなければならないのです。今日、既成教会の信徒は「主は栄光の姿で来られる」と思っているでしょう。十字架に来られ勝利したのちに、初めて栄光の主になるのです。