⑤「第三の封印」 顕進様に対して石を投ずる者は、お父様に向かって投ずる者となることを忘れてはならない。
顕進様はお父様から《四本の矢》を放たれても、お父様と生死一体となられた為に決して離れることが出来ない。何故なら、お父様ご自身が、痛みを隠され、悲しみを隠されて、人類が負っている蕩減の全てを中心家庭に注がれる為に放たれた矢だったからです。正に、顕進様とお父様の血が一体となって流されているからです。
如何なる理由があろうとも、このような顕進様に対して石を投ずる者は、お父様に向かって投ずる者となることを忘れてはならない。
本日は・・・、2016/10/21の記事の修正です。解読の修正はこの一ヶ所だけですので、ご安心ください。
修正の内容は、既にこれまでの記事でも取り上げていましたが、黙示録2:27の「彼」を顕進様としていましたが、七つの教会にあてた書簡の解読の結果、この「彼」は長い文脈から見ても再臨主になります。
一つ目・・・「何故、顕進様がサタン側のカインになったのか」です。
二つ目・・・「その顕進様がどうして再び蘇ることができたのか。」についてです。
①どうしたら黙示録11:4の「オリーブの木」なることができたのかです。
②黙示録5:6-7の「第三の封印」を解いたときに、摂理の中央に登場することが出来たのかです。
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神側とサタン側の原理的分水嶺とも言える境界線はどこにあるのでしょうか。その根拠となる御言葉が原理講論にあります。
原理講論 第四節 世界大戦
(2) 天の側とサタンの側との区別は何によって決定されるか
前編で既に論じたように、キリスト教はすべての宗教の目的を達成するための最終的な使命をもって、中心宗教に立てられているので、復帰摂理の立場から見れば、この摂理の目的を指向するキリスト教の行く道を妨害するものは、何でもサタン側になるのである。
したがって、キリスト教を迫害するとか、または、その発展を直接、あるいは間接的に妨害する国家は、みなサタン側になる。
この御言葉からも分かるように、道徳的であるとか、正しい判断であるとか、或いは、顕進様のようにお父様を誰よりも愛しているとか、これだけの理由では神側に立つことができないことが分かります。
この為に、全てを勝利されたお父様であったとしても、お母様のなすべき責任が残されている限り、お父様は一人で後天時代に行くことができず、サタンがいる先天時代にその身を置くしかありませんでした。
その為、お父様は先天時代を離れることができないために、「お母様が神様の前からいなくなったなら、たとえ、王であったとしても聖和する。」と、『平和の主人、血統の主人』に語られているのはこの原理によります。
ですから、人類を救済しサタンを屈服させる為に神様がイエス様を供えたように、お父様が顕進様を摂理圏に立てられたその時には、既に、顕進様の運命的な路程はイエス様やお父様と同様な路程を通過することをご存知だったと考えられます。
このようにお父様もそうであったように、顕進様も自身の意志とは無関係に捨てられる立場に立つようになりましたので、お父様は顕進様をもう一度生かすためになされたのが、《 四本の矢 》を放つ摂理だったのです。
だからと言って、お父様がサタンの目の前で顕進様に矢を放たれたのだから、私も審判の言葉を顕進様に投げても良いと言う原理的な根拠はどこにもありません。
また、この《四本の矢》には他にも重要な摂理がありました。
それが次の二つ目です。
二つ目・・・「その顕進様がどうして再び蘇ることができたのか。」についてです。
①どうしたら黙示録11:4の「オリーブの木」なることができたのかです。②黙示録5:6-7の「第三の封印」を解いたときに、摂理の中央に登場することが出来たのかです。
顕進様は元々、長子として後天時代を担う立場にありました。その為、お父様の全ての勝利を相続する立場にありましたから、後天時代に出発のための摂理をもう一度立て直す必要がありました。その摂理こそがカインアベルの摂理である弟が兄になり兄が弟になるという逆転の摂理です。
黙示録6:6で第三の封印で登場した顕進様に対して「小麦一ますは一デナリ(後から来た者、亨進様)。大麦三ますも一デナリ(先に来た者、顕進様)。オリブ油とぶどう酒とを(命の道となる祝福の原理基準を)そこなうな」。と戒められたのはこの為です。
カインの立場に立たれた顕進様はアベルの立場に立たれた亨進様に比べて、あまりにも無慈悲で理不尽な道を行くことになります。先にみ旨に参加して家庭連合の責任が果たされていればそのまま後天時代を担うべき立場にもあったにもかかわらず、自らの責任ではないことで転落して、残された蕩減の道を栄光の道ではなく、真逆の道である、兄が弟になるという、カインアベルの逆理の道を余儀なくされたお方が顕進様です。
無慈悲で理不尽な道を、自分の栄光ではなく、お父様とともに同苦することに自ら進んでいかなければならないという、顕進様が望んだ道とは真逆な心情を通過していかなければなりません。顕進様がこのような道を行かなければならないとするなら、ましてや、更なるカイン圏にいる私たちは顕進様と同苦する立場で、自らその道を求めて、栄光よりも、苦杯を求めていくことにより、天の祝座に参席することが出来ると信じます。
お父様にとってこの時の最大の十字架は、愛する我が子に対して、人類史的蕩減の重圧をお父様ご自身から与えなければならなかったことです。まさに、イサク献祭です。お父様は中心家庭を海に譬えて語られているように、全ての苦杯を海に引き入れてしまうという、苦海そのものとして、聖なる海を自らの心情の血で真っ赤に染められたのです。
そのために、サタンを完全に分立する為の蕩減の摂理として、顕進様がお父様と完全に一体化する為の「アブラハムのイサク献祭」が必要になりました。これが《四本の矢》の摂理であり、お父様にとってこの摂理は、お母様に対されたに次ぐに等しい、人類とサタンに対して、これ以上の精誠がない、天宙史に残る祭物でした。
《四本の矢》を受けられた顕進様はサタンから如何なる誹謗と中傷を受けようとも、お母様や弟妹達を許され、長い期間、沈黙を保ち続けられました。
私はこれまで、顕進様の口から語られるお父様に対する恨みの一言、お母様に対する恨みの一言、弟妹に対する恨みの一言の言葉を探し続けましたが、見つけ出すことができませんでした。これからもそうであってほしいと思っています。
顕進様がこれだけの矢を受けとめられたということは、矢を放たなければならなかったお父様の心情と、それを見つめておられた神様の心情と完全に一体となられたからに他ならないと確信します。これからも変わることなく、更に一層、お父様の心情を相続されて、兄が弟に侍る愛の王となり、全家庭連合を包容されて、お母様と子女様たちに容赦なく突き刺さった刺を抜き去ってくださることを願わないわけにはいきません。
追記・・・2017/12/30
もう一本の矢があると思う。それは、亨進様の総会長就任に参加できなかったことだ。呼ばれても参加しなかったことなのか、呼ばれなかったのか?精査する必要ある。ご存知の方はコメントで教えて頂きたい。