母性復帰から見たリベカ、タマル、マリヤの役事
天聖経
罪と蕩減復帰
第三章 蕩減と復帰の公式
一 母性復帰から見たリベカ、タマル、マリヤの役事
1.エバの堕落とリベカ、タマルの欺きの役事
堕落は母の胎内から始まりました。それゆえ復帰も母の胎内からなされなければなりません。そこが悪の根源地となり、出発点になったので、復帰においてもその原点に戻らなければならないのです。それで神様は二人の兄弟を立てて、長子権を復帰する摂理を行うことになったのです。すなわち、カインはアベルの位置に下がらなければならず、アベルはカインの位置、すなわち長子の位置に上がらなければならなかったのです。しかしカインはアベルを殺してしまいました。この行為は、アダムとエバの時の堕落行為の反復でした。すなわち復帰された立場はおろか、再び天使がアダムを主管した立場に立ってしまったのです。
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考えてみてください。エバが堕落するとき誰をだましましたか。神様をだましました。神様に隠れて、神様に相談せずに勝手に神様を否定する立場で堕落したのです。次に、アダムは自分の夫であると同時に神様の息子です。父子を否定する立場で堕落したがゆえに、アダムを失いました。このようになったのを蕩減復帰するために神様はリベカを立て、神様の代わりに父イサク、アダムの代わりに息子エサウ、この二人が分からないように祝福を奪ってくるのです。言い換えれば、逆になったものを取り替えるために、リベカはヤコブを通して、失った祝福の長子の嗣業を奪ってくることのできる条件をもつようになったのです。条件です、条件。その実体を得たのではなく、条件を得たのです。
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天使がエバを誘惑しましたが、今度は逆に、エバが誘惑するのです。そのようなことを蕩減復帰しなければなりません。ですからタマルは 舅 と関係を結ぶことになったのです。関係を結ぶ時の約束で、やぎの子をやるというのを、印と紐と杖の三つのしるしとなるものをくれと言って受け取り、保管しました。「私のはらんだ子の父親が誰かということを確認させるためには、たとえ死ぬとしても、それを残して死ななければ」という覚悟で、タマルは証拠物を受け取って保管したのです。
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マリヤも、エバとほとんど同じではありませんか。自分の夫であり、兄であるアダムと父である神様、神様と兄と夫をエバが欺いたように、タマルもそのようにしたのです。自分の未来の夫となる人、そして舅、夫と兄とすべての兄弟を欺いたその内容は、すべてエバの行為と一致する蕩減の内容となるのです。それがタマル自体を中心として、マリヤを中心として相似しているのです。
*天聖経 罪と蕩減復帰 第三章 一 1.
エバが三人の男性を欺いたように、いつも三人の男性を欺くのです。リベカが三人の男性を欺いたでしょう。神様、自分の夫、自分の息子を欺きました。またタマルも三人の男性を欺きました。舅と一番目の息子、二番目の息子を欺きました。またマリヤは誰を欺きましたか。マリヤも神様、そして自分の父母、自分の夫。同じです。エバ(=お母様)が父を欺き、兄(=先生)を欺き、夫(=先生)を欺きました。アダムが兄であると同時に夫です。同じなのです。
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マタイによる福音書第一章に四大遊女が出てきます。そこにバテシバが出てくるでしょう。タマルが出てくるでしょう。その次に遊女ラハブが出てくるでしょう。次にはルツが出てくるでしょう。四大淫女が出てきます。彼女たちはみな淫女です。夫がいるのに他の男と関係をもったのですから淫女ではありませんか。聖書を一度読んでごらんなさい。よく読んでみなさいというのです。それゆえイエス様は正妻を通して生まれることができないのです。めかけを通して出てきたのです。
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聖書は聖なる経典であるのに、許されないような内容がたくさんあります。そうではないですか。ヤコブがリベカと一つになって、兄エサウと父を欺いて祝福を受けるというようなことがどうして起きたのでしょうか。またタマルが舅と関係を結んで生まれたペレヅとゼラを中心として、ユダの支派が祝福を受けるようになったのはなぜかという問題、人類の道徳観では解決できないこのような問題があるのはなぜかということです。
マタイによる福音書第一章には四大淫女が出てきます。タマルとバテシバとラハブとルツが出てきます。マタイによる福音書は創世記に匹敵するものですが、歴史時代において最初のページにこのような女性たちを中心として清くない汚点をもつ女性たちがこのように出てくるのはなぜかということです。このような問題は、すべて堕落原理を知らずしては解決する道がありません。謎として残っているのです。ところが文総裁の時代になって初めてそれをすべて明らかにしたのです。