家庭平和協会(顕進様)がサンクリチアリ教会を批判することは天意にあらず!!・・・顕進様を天意に沿って証ししてくれるのが側近、指示される方たちである
聡明で決断力と行動力にあられる顕進様は、ご自身の置かれている摂理的位置を理解していると信じている。顕進様がお父様から《四本の矢》を放たれながらもお父様を捨てなかったのは自分の為ではなく、未来の摂理の為だったのだから、今、それを証明しなければならない。
ただ心配なのは、顕進様がお母様の独生女発言問題を知りながらお母様を守ろうとするのは良いのだが、国進様、亨進様に対する批判が高じることが心配だ。はっきり言えば、批判してはならないのだ。何故なら、お母様の《誤った言説》に比べたら、サンクリチアリ教会の問題はまだ小さな問題だからだ。
サンクリチアリ教会の鉄の杖(銃)問題は、お父様が共産主義問題で1960年代に銃を製造する摂理的正当性を語られている御言葉があるので、考察を進めることにする。判断一つ間違えば、この鉄の杖問題で、イメージ問題だけで反対声明を発表することは本質からズレていると言わざるを得ないのではないだろうか。
それからもう一つは、家庭連合の財産を持っていったことに対する反省が最優先であるからだ。顕進様がこの問題を棚上げにすることは信頼を失うことになるから、絶対に避けなければならない。
顕進様はサタンに奪われた条件を元に戻さなければならない。その為には、《顕進様が復帰されたヤコブとなって、復帰されたエソウになっている亨進様》に全財産をさしあげることが必要になる。
顕進様は裁判問題を引き起こした国進様は怨讐の中の怨讐であるのだから、これを許さなければならないという、顕進様にとって最高の摂理的な舞台ができあがったことになる。
顕進様はお父様の《四本の矢》を受けてもお父様を放さなかった。これは自分の為ではなくお父様の為であったことを証明しなければならない。カイン圏の全責任を負われたお父様は、イエス様同様に自ら聖和された。顕進様も《復帰されたヤコブとして》自ら《「第二の死」》を迎えて、復帰されたエソウの前に全てを捧げて、復活しなければならない。こうなれば、お父様の《四本の矢》と顕進様自らの《「第二の死」》が一体となったことが立証されるようになって、顕進様と国進様と亨進様の三人が怨讐を超えてお父様の心情と一体となる。
下記の聖句〔A〕の譬えに躓かないようにして頂きたいが、顕進様はイエス様の前に立った洗礼ヨハネのような立場であるとも言える。洗礼ヨハネ は腹違いの弟であるイエスに対して完全自己否定ができなかったが、顕進様はお父様につかまって超えて行かなければならない。顕進様の周囲の信徒たちは単なる顕進様に対する賛美者、追従者、イエスマンであってはならない。それでは歴史的な禍根と後悔を残すことになるからだ。今こそ、顕進様に対して義理や人情ではなく御言葉に沿った対応が求められている。
下記の聖句〔A〕は、洗礼ヨハネが「証ししてほしい、助けてほしい」と、日頃とは全く違った気持ちをさらして、一人の人間として、弱弱しい信仰をさらけ出し、本音で弟子たちに頼んでいる聖句だ。
ヨハネは腹違いの弟、イエスに従うことを躊躇し、その不信を棚上げにして、愚かにも、ヘロデの妾問題に口を挟んでしまった。
その結果、ヨハネはサタンにつかまって牢獄に捕えられ、挙句の果ては、サロメの踊りの見返りに首をはねられて処刑(マルコによる福音書6章14-20節)されてしまった。それを知ったイエス様は余りの悲しみに包まれて一人静かな所に行かれたと記されている。
同じ様に、顕進様のサンクリチアリ教会に対する批判は、たとえ正しく見えても、天意にはならない。それよりも、お父様が顕進様を生かそうとされた《四本の矢》の天意を知って、これに対する声明を公にし、顕進様自ら、自分を捨てて《「第二の死」》を迎えてお父様と一つになることが最優先である。
これができなければ、《国庫金》という記事に、お父様が『(顕進様が)抜けたければ、「真の父母は必要ない」と言って抜けなさいというのです。』と語られたことが暗示しているように、顕進様がお父様を怨讐視してしまう危険性があるからだ。顕進様は現在、非常に苦しい状況下におられることを、側近の方々、指示される方々はどれくらいご存知なのだろうか。単なる顕進様支持の表明や単純にサンクリチアリ教会の批判では済まされないことを知らなければならない。
もし、顕進様が《「第二の死」》を迎えることができれば、最大の怨讐である国進様と亨進様と一体化する道が必ず見えるようになるはずだ。これは天意だから国進様と亨進様は拒むことができないし、絶対に拒んではいけない摂理なのだ。
〔A〕
ヨハネによる福音書
3:25
ところが、ヨハネの弟子たちとひとりのユダヤ人との間に、きよめのことで争論が起った。
3:26
そこで彼らはヨハネのところにきて言った、「先生、ごらん下さい。ヨルダンの向こうであなたと一緒にいたことがあり、そして、あなたがあかしをしておられたあのかたが、バプテスマを授けており、皆の者が、そのかたのところへ出かけています」。
3:27
ヨハネは答えて言った、「人は天から与えられなければ、何ものも受けることはできない。
3:28
『わたしはキリストではなく、そのかたよりも先につかわされた者である』と言ったことをあかししてくれるのは、あなたがた自身である。
3:29
花嫁をもつ者は花婿である。花婿の友人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。こうして、この喜びはわたしに満ち足りている。
3:30
彼は必ず栄え、わたしは衰える。
3:31
上から来る者は、すべてのものの上にある。地から出る者は、地に属する者であって、地のことを語る。天から来る者は、すべてのものの上にある。
3:32
彼はその見たところ、聞いたところをあかししているが、だれもそのあかしを受けいれない。
3:33
しかし、そのあかしを受けいれる者は、神がまことであることを、たしかに認めたのである。
3:34
神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る。神は聖霊を限りなく賜うからである。
3:35
父は御子を愛して、万物をその手にお与えになった。
3:36
御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」。