ほふられた小羊

1. お父様が地上で成される最終目的は『アダムを再創造』することだった。
2. 『アダムの再創造』に必要な条件はお母様がお父様を主管する『主管性転倒式』という摂理だった。
3. 『主管性転倒式』とはお母様がお父様を主管することによって成された『聖和』である。
4. 『聖和』によって『アダムの再創造』が完成した。
5. お母様が絶対信仰の基準が立てることができないことを予め知っておられたお父様は、
 神様王権即位式の前日に「死の前倒し」という条件をもって即位式を挙行された。
6. その為、神様王権即位式以降から12年の延長期間のお母様はサタン側の堕落したエバの立場に立つことになった。
7. 12年の延長期間において、お母様は信仰基準を立てることができないことから、お父様は真の相対(新婦)を失うことになり、自ら聖和された。
8. イエス様の死が摂理の大転換となったと同じように、この『聖和』が摂理の大転換点のとなっている。
9. お父様の七年の大患難時代(2013-2019)が今年で終わります。そして、コロナ災禍で始まり、ウクライナ問題の真っただ中にある2019-2025年までが世界的蕩減時代になっています。さらに、2025-2031年までが世界的贖罪時代となります。そして、これ以降、お父様がこの地上に臨まれる時代圏が到来しようとしています。
 さらに、お母様が80歳以降に入るとお母様の終焉が迫っています。

文先生とお母様は本当に「真の父母」であったのか? 「偽りの父母」であったのか?

  『事実蕩減』とは如何なることなのか?《 昨日のブログ記事 》の御言葉を分かりやすく整理すると次のようになる。


御言葉〔A〕 (16万人女性訪韓修 「真の父母と重生」 1993.12.20 )


 「堕落したのだから、堕落から始めないといけないのです。」


ーーーーーーーーーーーー


御言葉〔B〕 (男性訪韓修練会 「家庭における女性の使命」・・ヨセフとマリヤの心境 1995.1.11-19)


 「非法的でなければ戻っていく道がないのです。」


ーーーーーーーーーーーー


御言葉〔C〕(天聖経 真の神様 第四章 三 2. )


(神様は)非法的な愛という条件ゆえに手をつけることができない・・・」


(この御言葉をひっくり返せば、「全ては文先生の責任で行う。」ということになる。)



ーーーーーーーーーーーー
文先生はメシヤでありながら、堕落する立場で非法的な愛に着手した
  まさに、命を賭した「虎穴に入らずんば虎子を得ず」であった
ーーーーーーーーーーーー
 先生は、何故そのような位置に立たれたのか。 


 一つの重要な観点は、後日、御言葉から考察するが、アダムの堕落により真のアダムを完成せずに失った為、完成基準のメシヤではあっても、『事実蕩減』によってアダムが堕落した堕落圏まで入り、メシヤ自らの責任で真のアダムを完成させなければならないということ。


 それから、もう一つの観点は、1945年のキリスト教の失敗を先生が洗礼ヨハネの立場で蕩減復帰しなければならなくなったこと。その為、お母様を救済する為に、先生自ら、燃え盛る堕落の火の中に飛び込まれた。これは先生が「堕落」する立場に立たれたことを意味する。
 そうしてでも、お母様と人類を救済する方法は他になかったということ。この救済方法が『事実蕩減』であり、その外観が上記の御言葉〔A〕〔B〕〔C〕になる。



 『事実蕩減』の道は神様も助けることができかった。先生は統一教会内においてさえも語ることもできず、弁明することもできなかった。ましてや、『事実蕩減』の姿を隠すこともできなかったのだから、信徒から受ける多くの反撃は誤解と不信からくるものだった。
  
 一番辛かったことは、『事実蕩減』の為に、躓いてユダのような信徒が現れたこと。ユダの出現は先生を慕って着いてくる信徒たちが、やがて大きな迫害を受ける予兆であったこと。


 中からも、外からも、文先生と子女様は『事実蕩減』による甚だしい誤解を受けた。お母様は『事実蕩減』の第一の当事者として、終わりのない、発狂するほどの苦しみを味わわれた。
 ましてや、非法的な愛による蕩減法の問題点は、不信すれば、直ちに、ありもしないことが、さも、見てきたように、自分を守る為に、話がでっち上げられたことだ。全てが誤解であり、世の中で最もいやらしい男としてでっち上げられ、石を投げられ、唾をかけられ、六度の牢獄にまで入ることになったのはこの為だった。
 誰一人として、(話すはずもないのだが、)文先生から直接話を聞いた者はいない。にもかかわらず、さも、常に見てきたかのように話した。全て、自分の為に・・・。


 しかし、全てが無実であった。


 また、先生にとって、2001年の神様王権即位式以降から聖和までの12年間は、お母様と腹心の幹部たちから面従腹背の扱いを受けるようになった。まるで裸の王様のように扱われ、この時の先生は、私にはひ弱な老人に見えた。
 先生は、お母様と幹部たちの前で、わざと、ノアが天幕で裸になったようなことまでなされた。それは、そうすることが、お母様と幹部たちにとっては都合がよかったからだ。


 この期間、先生は、お母様と幹部たちから全ての実権が奪い取られ、この期間を《 七度目の牢獄(囹圄の神様、囹圄の文先生) 》と語られていた。


  信じられないことだが・・・・、お母様と幹部たちから、《 お前は死んでいなくなれ! 》と蔑(さげす)まされ、疎まれた。そして、《 相対(=お母様)を失ったものは死ななければならない 》という原理に従って、先生自らが、自らの死の祭壇に上がるかどうか、お母様と幹部たちは、その時が来ることを固唾を飲んで待ったのである。


 ついに、時が来て、彼らの願いが受け入れられた。


 先生自ら肺炎になられ、回復の兆しがあったのを、自ら断って悪化させ、無言のまま、苦しみの18日間を密室で過ごされ、神様に見守られながら聖和された。
 安楽死を問う声もあるが、イエス様の言葉である「右の頬を打たれたら、ほかの頬も向けてやりなさい」という原理に従って、お父様は自ら死を成すことにより狂いなく実行された。


この時の姿を黙示録には一ヶ所だけ「5:6 ほふられたとみえる小羊」と記されている。この聖句の表現は、全て、文先生の生涯が神様の預言どおりに成されたということを暗示している。


 文先生が聖和された後、家庭連合は《 黙示録の預言どおり、三つに分裂した。 》


 先生の聖和後、果たして、文先生とお母様が本当に「真の父母」であったのか、訳ありの「真の父母」、つまり、「偽りの父母」であったのか問われている。


 そして、今の時代ほど、むなしく無慈悲な北風が統一信徒に吹き付けている時代はない。


 まさに今、私たちは『七年の大患難』の最後の年にいると思える。


 私たちの信仰が大きく揺らいで枯れていく側にいるのか、反対に、根が張り、芽吹きが近づいている側にいるのか、問われている。



 次回は、非法的な愛による『事実蕩減』からみた、「真の父母」とは一体何を意味していたのかを考察する。

×

非ログインユーザーとして返信する