原理講論の間違った記述には理由がある・・・特に再臨論がそうだ
御言葉(A)
《 御言訓読と霊界動員 p.93 》
《 真の御父母様の生涯路程 4 第七節 五 》
『「原理講論」は、劉協会長が書いたのではありません。一ページ一ページすべて鑑定を受けたのです。私が許諾しなければ、それに手を出すことはできません。
もし間違って書かれていたとしても、軽視すれば引っ掛かります。何のためにそのように書いたのかを知らなければなりません。経典は、絶対視しなければならないのです。
「明らかに間違っているようなのに、なぜそのように書いたのか」と言う人がいます。
それは全体を見たとき、そのように書くようになっているからです。
そのように書くべきほかの事情があり、飛躍せざるを得ない内容があったということを知らなければなりません。そのように考えなければならないのです。
それを理解できずに、自分が分からないことは「間違っている」と考えています。
しかし、原理は千年たっても変わりません。』
(人間の責任分担があるが故に、再臨論、黙示録は人間の責任分担が全うされなければならない時代に記されていましたから、「小羊の婚宴」はみ旨からみて成就したとして終えていました。
しかし、未だに「小羊の婚宴」は成就していません。)