イエス様とお父様の十字架の傍観者になってはならない
お父様をメシヤとしてこの地上に迎える為には、信仰基台の中心人物となる洗礼ヨハネの立場の人間がメシヤと完全に一体とならなければならないと、原理講論には記されている。
ならば、お父様の前に立つ洗礼ヨハネは誰であり、その人物がお父様と一体となる為にどのような蕩減の道を歩まなければならなかったのであろうか。
お父様の御言葉によると、金百文牧師、《第一夫人》、《劉初代教会長》、《お母様》、《三人の分捧王》が洗礼ヨハネの使命を担っていたことが分かる。
二千年前、洗礼ヨハネはイエス様をメシヤとして証しながらも、イエス様に従うことができない苦しい胸中を、聖書のヨハネ3:28に記されている。
ヨハネ3:28
『わたしはキリストではなく、そのかたよりも先につかわされた者である』と言ったことをあかししてくれるのは、あなたがた自身である。
洗礼ヨハネはメシヤではないかと思われたほどの名声を得ていたが、イエス様とは腹違いの異母兄弟であり、弟にあたるイエスは姦淫によって生まれたという噂の中で成長していた。当時、ユダヤ教の厳しい戒律を遵守していた洗礼ヨハネからすれば、イエスに従うことは最大の十字架だった。
結局、洗礼ヨハネはイエス様に従うことができない為に、自分がイエス様に従うことができるように、弟子たちにサポートしてくれるようにお願いして、「あかししてくれるのは、あなたがた自身である」と語っていたのだった。
これと同じように、再臨主の前に洗礼ヨハネの使命を持った金百文牧師、第一夫人、お母様、三人の分捧王立ちも、お父様の最大の十字架だった「淫教のメシヤ」という汚名を共に受けて立たなければならなかったが、その十字架が最も大きかったお方がお母様であり、次に大きかったのが子女様たちであった。
しかし、お母様は女性連合の総裁として、最高の名声が与えられていたことと、更には、再臨主の妻としての最高の名誉と尊敬を得ていた。その為に、それとは正反対の不名誉と誤解するような、お父様からお母様に投げかけられた妾の蕩減摂理があった。
お母様にとって、そこから生まれた「淫教のメシヤ」という汚名を共有できる心境ではなかったことが容易に読みとることができる。
もちろん、三人の分捧王達も、長年、お父様が受け続けた「淫教のメシヤ」という汚名に対して、誰もが見て見ぬふりをしてきたのだから、罪のないお父様に石を投げ続けて来たことと、そう変わりはない。残念ながら私もその一人であった。
果たして、お父様が生涯背負われ続けた「淫教のメシヤ」という汚名を共に受けて立つことができる、真の息子娘、信徒は何人いるのだろうか。これは、私にとっても厳しく問われるとものだ。
私はイエス様とお父様が十字架を担いでゴルゴだの道を歩かれている姿を、今も目の前に見ているような心境にかられる時がある。絶対に傍観者になってはいけないと戒める日々だ。