③ 後天時代の生活信仰
1)(後天時代の生活信仰 P129)
『神様は、怨讐に対して剣をふりかざさなければなりませんか。許さなければなりませんか。許すことは簡単なことでしょうか。
胸が詰まるのです。自分の息子、娘を奪って殺したものであり、内外の世界を全てめちゃくちゃにしてしまったのです。
ところが、そのような怨讐に対しても、そのようなことがなかったかのように対さなければならない立場にいらっしゃる方が神様です。そのように対さなければ、復帰の役事ができないのです。怨讐になったことがないかのように考えなければ、救いの役事ができないのです。
怨讐ではないかのように対さなければ、許したという立場に立つことができません。
そのようなところから「怨讐を愛しなさい」という言葉が出てくるようになったのです。
ですから、怨讐を愛さなければなりません。歴史になかった新しい法度が初めて出てきたのです。』
2)(後天時代の生活信仰P134)
『文総裁は、戦ったでしょうか、戦わなかったでしょうか。私は戦いませんでした。神様の創造理想には、打つという論理がありません。
創造理想の中には、怨讐視してむちを打つという、このような理論がありません。
ですから、神様も、打たれて奪う作戦をしてこられました。』
3)(後天時代の生活信仰 P128・P129)
『アダムが神様の息子ならば、彼は神様の代身です。そのようにみれば、天使長は神様の僕なので、神様の息子である人間にとっても天使長は僕です。
それでは、いつ人間が僕を愛したでしょうか。愛しましたか、愛することができませんでしたか。絶対にできなかったというのです。わかりますか。
このような問題がひっかかっているので、これを果たすまでは、サタンを思い通りに主管することはできません。
ですから、打つことができないのです。
これを解ける人が現れなかったので、このような悪の世界が6千年間も延長したということを、皆さんは知らなければなりません。』
天聖経 「罪と蕩減復帰」 第二章 三 2
「怨讐を愛さずしては天国に入れません。怨讐を愛さずしては天国に入れないと言いましたが、その内容を霊界で知ってみると、どんなにうらやましいかというのです。なぜそうかといえば、アダムとエバは堕落したとしても、神様の原理原則は変わりませんでした。
天国に入る原理原則はアダムの堕落前も後も変わりがないのです。それでは本来堕落しなかったアダムが完成していたならば、完成と同時に神様とアダムが合わさって……よく聞きなさい。天使長であるルーシェルを愛して天国に連れて入らなければならないのが原理原則だったというのです。そのような原理原則は残っているのです。サタンがそれをもって主張するのです。
*
この世で犯罪を犯した者でも自分の罪の実状を知っている人がいないときには、どこに行っても堂々と罪を犯していない人のように振る舞うことができるのです。
しかし、とても小さい少年でもその人が罪を犯す現場を目撃したと指摘するときには、その犯罪者はそれに屈服するのです。ですからサタン悪魔を屈服させるには、サタン悪魔の正体を暴いて罪状を暴露し、天上と地上で追放運動をすればいいのです。
*
神様は永遠の公法の主人公であられるので、神様の前にサタンを引っ張っていって讒訴しなければならないのです。サタンを告訴しなければなりません。サタンが弁護するのを見て、検事の立場で論告をして微動だにできないように締め付けておかなければなりません。
そうして堕落した天使長ではなく堕落していない天使長たちが「正しい! まさしくそうだ! 正しい」と言わなければなりません。」
(「祝福85号」 P68 「祝福二世の行くべき道」1994年12月24日 イーストガーデン)
今から、地上天国を建設していく中において、きみたちの伝統は、先生の直系の子女たちを中心とした伝統ではなく、ご父母様を中心とした伝統だということを、はっきり知らなければなりません。
(中略)伝統はただ一つ! 真のお父様を中心として! 他の誰かの、どんな話にも影響されてはいけません。先生が教えた御言と先生の原理の御言以外には、どんな話にも従ってはならないのです。
今、先生を中心としてお母様を立てました。先生が霊界に行ったならば、お母様を絶対中心として、絶対的に一つにならなければなりません。
今、お母様が行く道は、お父様が今まで立てた御言と説教集を中心として、行かなければならないのです。他の言葉を述べるのを許しません。
今度、韓国においても、御言絶対主義をとることができるように措置したのです。どのような御言も、第二の御言を許しません!
原理の御言は、先生が歴史的に説いたものであり、勝利の基盤を築くための戦争勝利の記録です。(中略)失ってしまったすべての全体歴史を探し立てることのできる勝利を記録したのが、原理の御言であるということを、はっきり知らなければならないというのです。
原理講論 五章 第四節 (二)(2)
前編で既に論じたように、キリスト教はすべての宗教の目的を達成するための最終的な使命をもって、中心宗教に立てられているので、復帰摂理の立場から見れば、この摂理の目的を指向するキリスト教の行く道を妨害するものは、何でもサタン側になるのである。
したがって、キリスト教を迫害するとか、または、その発展を直接、あるいは間接的に妨害する国家は、みなサタン側になる。
キリスト教の代わりに立ったのが統一教会ですから、統一教会の中からヨシュアとカレブが登場するようになります。
その方こそ、顕進様と亨進様になります。
文鮮明先生のみ言集 訓教経(上)
『強く雄々しくあって、失った福地を回復しよう』 1957/6/23
◆モーセとイエス様が直面した苦難と試験
ですから、モーセのみ旨をヨシュアとカレブが引き継いで、二世たちを連れてカナンに入っていったように、今や第二のヨシュアとカレブがイエス様のみ旨を引き継いで、第二の使徒たちを連れて世界的なカナンの福地に入り、地上天国を建設しなければなりません。これが、イエス様の望みであり、再臨理想なのです。
◆強く雄々しくあれ
それでは、私たちがそういう責任と使命を引き受けようとするならば、神様は私たちに何を強調されるでしょうか。神様が荒野でモーセの使命を引き継いだヨシュアに、「強く雄々しくあれ」と言われたのと同じように、私たちにも「強く雄々しくあれ」と強調なさるはずです。これから私たちは、世界的カナン福地を見つめ、そこに入っていくことを願いながら荒野にいるという事実を知り、ヨシュアとカレブのような心と体にならなければなりません。
すると今日、世界的なキリスト教徒たちはどのように生きなければならないでしょうか。ヨシュアとカレブのような存在が現れて、この地上のキリスト教を導いていくことを天の前に訴えなければならないのです。中心を失い混沌と混乱を起こしているこの荒野時代で、これを収拾していく方向を提示できるヨシュアとカレブのような存在が現れなければならない時になったのです。このことを今日、キリスト教徒たちははっきりと悟らなければなりません。ここでは、自らの教派が問題ではありません。私たちはそのことを知らなければなりません。
ヨハネの黙示録第十一章では、二本のオリーブの木に対する預言をしています。これは何を意味しているのでしょうか。世界的なカナン復帰の路程を出発するのに先立ち、ヨシュアとカレブのような存在が現れることを予告しているのです。モーセの代わりに現れたヨシュアとカレブがユダヤ民族を導いてカナンの地に入っていったのと同じように、今日にもイエス・キリストの福音をもったヨシュアとカレブのような人たちが現れて、神様の民を率いて世界的なカナン福地、新しい希望のカナン福地に向かうようになるでしょう。
またヨシュアとカレブに従ってカナンに入っていった群れが、カナン七族を滅ぼしたように、皆さんにはサタンを滅ぼさなければならない責任があるのです。そういう天の勇士になり、そのような路程を歩むべき責任が、皆さんにあることを肝に銘じなければなりません。
そして、新しいみ言を主張するヨシュアとカレブがこの地のどこに現れようとも、人々の心の扉を開いて、み言を聞かせ、天のために生きられるようにする私たちにならなければなりません。
ヨシュアとカレブの行く道は、冒険の道でした。彼らが歩いた道は、難しい開拓の道であり、闘いの道でした。行く先々で開拓者の使命を果たさなければならない、厳しい道でした。時には個人的に、あるいは環境的にぶつかってくる試練と闘わなければならない路程が、彼らにはあったのです。