黙示録
4:6 ・・御座のそば近くそのまわりには、四つの生き物がいたが、その前にも後にも、一面に目がついていた。
4:7 第一の生き物はししのようであり、 第二の生き物は雄牛のようであり、 第三の生き物は人のような顔をしており、 第四の生き物は飛ぶわしのようであった。
天聖経 「地上生活と霊界」
第七章 五節 三 霊界と先祖
先生は、人々の顔を見れば、その先祖が良いか悪いか、大体分かります。ある人は、良い先祖がいて、福を受けるかと思えば、ある人は、悪い先祖がいて、ひどく苦労ばかりするのです。その様な人は、伝道しに任地に出ても、ひどく苦労ばかりします。(三七―一四四)
自分の性格の足りない所を埋める為には、証を聞けと言うのです。これを聞いて、自分のものとして吸収するのです。補強しなければならなりません。それ故、多くの人の体験談を聞かなければなりません。
人が言った事を批判してはいけないと言うのです。批判するのはサタン側に成るか、天の側に成るか、二つのうちの一つを決定するという事を意味するのです。
批判した時は、サタン側に成るか、天の側に成るか、二つのうちに一つに分かれてしまうのです。それ故に、批判する事は、自分が発展するにおいてのがんなのです。
サタン側になった者が、神側に行く事ができず、神側になった者が、サタン側に行く事は出来ないのです。我々人間生活において行く所にには、直行は絶対出来ません。じぐざぐに行くのです。
先祖も善の先祖だけいるのではなく、悪い先祖たちも全部関係しています。自分自体が素性的に見る時、善の先祖の素性を沢山持っている時はこの様に行きますが、悪の先祖の素性を受けた部分もあります。自分の人生においてその様な時が来ます。そういう時は、必ずこの様にする様になります。
批判すれば大変な事に成るのです。それ故、「判断するな」という言葉も、皆その様な道理から出てくる言葉です。 (日付未詳)
天聖経 「礼節と儀式」
第二章 九 3
教会のために熱心に働いて精誠を捧げる人を見て、「あの人は他の人と違ってあれは何だ」と悪口を言えば、既に彼はカインになるのです。皆さんがそれを知らなければなりません。カイン・アベルはそのように分けられるのです。
罪がない立場で批判される人、被害を受ける人は必ずアベルになるのです。批判する人、危害を加える人はカインになるのです。
天聖経 「真の家庭と家庭盟誓」
第一章 二 4
「家庭盟誓」の文は、真の御父母様が闘ってきた戦勝の記録です。勝利した伝統の記録です。天宙の解放圏を成す時まで、この伝統的事実を自分の生活圏に適用させ、毎日のように自分の生活を批判しながら、相対的実体圏を自らが立てなければなりません。
皆さんが盟誓文を斉唱する時、盟誓文を暗唱しながら、盟誓文を中心として常に批判しなければなりません。その言葉を、天から聞こえてくる言葉と思い、私がその実体圏になっているかを批判し、そのようにできていない部分は、削り取らなければいけません。
(文鮮明先生御言葉選集 609-152 2009.3.9)
昨日、私が束草で会わなければならないことを約束して解決しておいたのです。顯進がどこへ行ったの? 来た? 「来ませんでした。(お母様)」 顯進が出ていったのを呼び入れましたが、父の言葉を立ててくれたことをありがたく思います。
その場で自分がこのような団体に会わない(意訳すると「団体で働かない」)と言って出て行きましたが、呼び入れて自分が言ったことが間違いであったと、現場で解けと言いました。それでも父の言葉に従おうとしました。体面に関わらず、全ての人たち、公的な会合で父母様と約束して会った人々の前で間違ったと言って拍手で歓迎して座らせました。(609-151 2009.3.9)
見てください(意訳:考えてみなさい) 相反することをここにいる人々が会って評価するなというのです。評価する人々が責任持たなければいけません。先生を通して行く道を皆解決したのにそれを否定すればどうなるのですか?それを否定するという人が悪いですが、そこに答えて応じてあげる人も先生が決定したことを否定する立場に立つので二つとも除去されなければならないのです。
そのように純理的な環境を通して作って置いたので、逆理的な環境基準が二つ(二人?)にあれば二つとも処断してしまわなければなりません。永遠に統一教会の門の前に足も踏み入れられないようにしなければいけませんが、その場まで行かずに皆善意の拍手をしたのです。顯進が踵を返す時拍手で歓迎する立場に立って、私が出て行く時呼び止めて手をつないで挨拶させて出て来たのです。
ですから皆さんに会う必要がないためにここに集まれと言いました。皆さんのなかで残念な思いがあれば(意訳:残念な思いを持っている人がいれば)、私にきて話せというのです。顯進とアボジの問題は問題になりません。そのような問題は我々にあり得ないので、根本がそうなる道を行かないことができるように全てしたというのです。
《 御言訓読と霊界動員 p.93 》
『「原理講論」は、劉協会長が書いたのではありません。一ページ一ページすべて鑑定を受けたのです。私が許諾しなければ、それに手を出すことはできません。
もし間違って書かれていたとしても、軽視すれば引っ掛かります。何のためにそのように書いたのかを知らなければなりません。経典は、絶対視しなければならないのです。
「明らかに間違っているようなのに、なぜそのように書いたのか」と言う人がいます。
それは全体を見たとき、そのように書くようになっているからです。
そのように書くべきほかの事情があり、飛躍せざるを得ない内容があったということを知らなければなりません。そのように考えなければならないのです。
それを理解できずに、自分が分からないことは「間違っている」と考えています。
しかし、原理は千年たっても変わりません。』
この御言葉は1961年に語られていますが、今の時代に向かって語られていたと言えます。お父様の路程においてお父様の最大の艱難が聖和であったのですから、共に私たちもお父様の心情を共にできる良き機会であるはずです。
それが私たちが歩まなければならない、聖和された2012年から2019年までの『七年の大患難』になると考えられます。
(途中、(※)コメントあり)
文鮮明先生のみ言集 訓教経(上)
『侍りたいお父様』 一九六一年二月十二日
◆患難の時を用意された意味
神様は終わりの日になれば、人類の前に七年の大患難があるだろうと予告されました。この患難時期は六千年の歴史路程において、天の悲しい曲折が聖徒にぶつかる時です。
人間の絆がみな壊れていき、信じられない環境にぶつかる時です。自分がどんなに良心的に正しく生きたとしても、その良心で自らの生涯を主張できない時です。み旨を抱き、考えのある者であればあるほど、眺めるあちこちに苦痛を感じる時です。そのような時が、終わりの日の七年大患難の時です。
その時は、希望が揺れる時であり、私たちが信じている信仰の中心が揺れる時であり、信じて従った指導者が揺れる時です。主義はもちろん、宗教、良心、父母の心情までもすべて揺れる時です。
では、神様はなぜそのような世の中をつくっておかなければならないのでしょうか。それは真の神様、歴史的に苦労した神様と同参したという価値を与えるためです。
神様は六千年間数多くの惨状を見てきましたし、数多くの曲折を受けられたので、終わりの日においては良心とか、主義とか、信仰ということをもって中心を立てることのできない環境にぶつかるようにするのです。
そのような患難の中でも「神様を愛する」と言う、そのような難しい場でも「神様と共に生きる」と言い得る真の息子、娘を探すために、そのような時が来るというのです。
それゆえ皆さんは、教会が揺れるのを見て悲しむことなく、ある主義が動揺するのを見て悲しむことなく、(※)ある主権者が倒れるのを見て悲しむことなく、自らの父母が変わったと悲しむことなく、自らの兄弟が変わり果てたと悲しまないでください。
〔(※)大患難時代に起こることですから、主権者とはお父様のことです。〕
頼り、信じていた世の中のすべてが動揺しても、皆さんの心は平然としていなければなりません。神様は動揺せず、この時間も私を訪ねてこられるということを知らなければなりません。神様が私たちに苦痛を与えるのは、神様との貴い一日、神様が経てきた苦痛の因縁を私たちに結んでくださるための、大きな約束であることを知らなければなりません。
そのような場で天を抱き締め、「一緒に行きましょう。共に闘いましょう。共に行動しましょう」と叫んで立つ人を探すために、そのような世の中が必要だというのです。
ですから皆さん、進む道がふさがったと落胆しないでください。この国が乱れると気落ちしないでください。神様は死んではいません。この世界がどんなに乱れても、気落ちしないでください。神様は死んではいません。神様は必ず訪ねてこられます。すべてが動揺しても、天に対する一片丹心だけは動揺させないでください。天を頼って仰ぐ希望の心だけは変わらないでください。
その心を変えようとするために、神様が皆さんをいかなる苦痛の場に追い込んだとしても、その場で父を呼ぶことができる心をもたなければなりません。いかなる場に落ちても、その場で天の心情のひもをつかんで上がろうと努力しなければなりません。地獄に落ちる苦痛を感じる恨があったとしても、父と共に参与する立場に立って父の苦痛を私が思いやって、その父は私の苦痛を察してくれることを信じて、そのような場でも行くという責任と義務を感じていくならば、皆さんは滅びないでしょう。
今日、数多くの(※1)キリスト教徒がいますが、そういう信者が果たして(※2)何名になるでしょうか。私たちは父に侍るのに、天上の宝座に座っていらっしゃる父に侍るのではなく、死亡の波打つ中で真の息子、娘を探すために御苦労される父に侍らなければなりません。
〔(※1)キリスト教徒とは「統一教会・家庭連合」のことです。(※2)数えるほどの数であることを予知されています。〕
その父を私の父と知り、その父の事情を私の事情として、その父の心情を私の心情として、(※1)その父の願いを私の願いとして訪ねてこられる(※2)父の前に雄々しく立って、「あなたの息子を探すことがあなたの願いであることを知って、その息子を探し、あなたの歴史的な曲折を解くことが、あなたの事情であることを知って、失った息子を抱き締めて愛したいのがあなたの心情であることを知りました。どのような塗炭の苦しみと患難と難しさの中にあったとしても、私があなたの願いの実体であり、事情の実体であり、心情の実体です」と自信をもって立たなければなりません。このような者であってこそ父の息子であり、またその父に侍ることができる者になるということを皆さんは知らなければなりません。
〔(※1)この父とは神様のことです。(※2)この父はメシヤであるお父様のことです。そう理解すれば文脈が合います。そうすれば、次に続く「息子を探し」とは顕進様であり、国進様であり、亨進様であり、全ての子女様たちであり、統一信徒達、全人類になります。〕