「小羊」こそ「再臨主」
◆ 祝福家庭と理想天国(1) 第二章 第一節 2
「このような終局的な最高の頂点が、黙示録に預言されています。
これがすなわち「小羊の婚宴」です。
再臨される主は、まさにその小羊であり、完成したアダムです。
主は完成したアダムとして来られ、完成したエバを復帰されるでしょう。このとき、彼らは人類の最初の父母となり、神様の喜びも完全に成就するでしょう。」
「人間に対する神の希望」 1973年10月20日 ワシントン リスナー講堂にて
「神のみ意(小羊の婚姻の宴)は、イエスの時成就されないまま否定されてしまいました。そのために、彼は再び第三のアダムとして来られるのです。小羊の婚姻の宴は開かれるでしょう。全人類の真の父母は、我々の時代に実体として立たれるでしょう。神は、神の真の家庭をこの地の表に生み出されるでしょう。
すべての人々が、真の父母を通して新たにつくり変えられるでしょう。すべての人々が、この世界に罪なき子供たちを生み殖やすことができるようになるでしょう。これらのことは、イエス・キリストが再び来られる時に成されるのであります。地上天国は、その時始まるのです。これが希望の日、再臨主が来られる日なのであります。
これが、神の本然の御理想が初めて実現される日なのであります。これが、神が人と共に住む日なのであります。神は喜びに満たされるでありましょう。そして、神のひとり子が完成された第三のアダムとしてこの地上に全く新しい歴史を出発させるでしょう。その日には、我々は神の生きた似姿となり、かくして、神は神の国を地上にもたらされるでありましょう。
私は心の底からこれらのすべてのことの実現が、神の時の満ちている今、すぐ間近であるということを皆様にはっきりお誓いするものであります。このような理想の最終的実現は、人間の希望であったと同様に、神の希望であったのであります。」
真の御父母様の生涯路程 4 第一節 四 小羊の婚宴
黙示録に現れた小羊の婚宴とは何かというと、私たち人類が堕落によって、神様の愛を受ける真の父母を失ってしまい、堕落した偽りの父母をもつようになったがゆえに、神様が人類歴史の終末時代に真の父母を探し出し、神様を中心として人間の先祖として結婚式をしてくださるということなのです。
創世記はアルファです。人間はアルファで落ちたので、黙示録であるオメガに行って合わせるというのです。
神様王権即位式 2000.12.1-2013.1.13 第三章 一 5.
アダム家庭のカイン・アベルが怨讐になったのと同じように、世界的な版図では、旧教と新教が怨讐になったのです。これが堕落しなかったアダム圏内に入ってきて、完全に一つになるのです。
イエス様が体を失ってしまうことによって、霊的な父母にはなりましたが、実体的な父母にはなることができなかったので、小羊の宴をするのです。それは何かというと、新しい主が来られて、真の父母圏を完成して宴をすることです。これがイエス様の時に成し遂げられていれば、ユダヤ教とイスラエルの国が一つになっていたはずであり、そのようになっていたならば、ローマは問題ありませんでした。
祝福と理想家庭 第二章 第二節 1.
キリスト教でいう「小羊の婚宴」とは何でしょうか。それは六千年前に神様が立てようとされた真の父母の姿を終末に再び立て、ここにもう一度兄弟の因縁と子女の因縁をつくろうとすることです。これが私たちの信じるイエス様の願いであり、私たちを導くため六千年間歴史とともに苦労してこられた神様の願いです。(61)
追記
この御言葉は、お父様の聖和を考察するにおいて、重要な御言葉となる。この御言葉から考察すれば、小羊とは再臨主のことを言っていることになるが、これは、追って記事とする。
原理講論 第六章 再臨論 第二節
(三)雲に乗って来られるという聖句は何を意味するのか
イエスの再臨が、地上誕生をもってなされるとするならば、雲に乗って来られるというみ言は、いったい、何を意味するのかを知らなければならない。そして、これを知るためには、まず雲とは何を比喩したものであるかということを知らなければならないのである。黙示録一章7節に、「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン」と記録されているみ言を見れば、すべての人たちが、必ず再臨されるイエスを見るようになっているのである。ところが、ステパノが殉教するとき、神の右に立っておられるイエスを見たのは、霊眼が開いた聖徒たちだけであった(使徒七・55)。したがって、霊界におられるイエスが、霊体そのままをもって再臨されるとすれば、彼は霊眼が開けている人々にだけ見えるのであるから、決して、各人の目がみな、霊体をもって再臨されるイエスを見ることはできないのである。ゆえに、聖書に、すべての人の目がみな再臨される主を見ることができるといっているのは、彼が肉身をとって来られるからであるということを知らなければならない。また肉身をつけているイエスが、雲に乗って来られるということは不可能なことであるから、ここでいうところの雲は、明らかに何かを比喩しているに相違ないのである。ところが、同じ聖句の中で、彼を刺しとおした者たちも見るであろうと記録されている。イエスを刺しとおした者は、ローマの兵士であった。しかしローマの兵士は、再臨されるイエスを見ることはできないのである。なぜかといえば、既に死んでしまったローマの兵士が、地上で再臨されるイエスを見ることができるためには、復活しなければならないのであるが、黙示録二〇章5節の記録によれば、イエスが再臨されるとき復活し得る人は、最初の復活に参与する人々だけであり、その他の死んだ者たちは、千年王国時代を経たのちに初めて復活することができるといわれているからである。それゆえに、ここでいっている「刺しとおした者」というのは、どう考えても比喩として解釈する以外にはなく、イエスが雲に乗って来られると信じていたにもかかわらず、意外にも彼が地上で肉身誕生をもって再臨されるようになる結果、それを知らずに彼を迫害するようになる者たちのことを指摘したものと見なければならない。