続・・・誰も石を投げてはいけない
《 「第二の封印」 》に登場する黙示録6:4の「赤い馬」はサタンを象徴し、その馬に乗っているのがお母様であると言いました。
私のような者でも真実を語れる時代に生きていることに感謝しなければなりません。もし、今日が中世暗黒時代だったとするなら、即刻、大衆の面前で火炙りの刑です。
家庭連合は原理から大きく脱線し、自らも更に大きく脱線する方向に足を進めていますから、このブログを読むとヒステリックになるか、全く無視するしかありません。
しかし、それでも、家庭連合の中にお父様に対する信仰を保っている人たちがいることを信じて、その人たちに訴えかけるブログとして、今日も投げかけます。
決してこのブログは三男の方、七男の方を指示するしないということで発信しているものではありません。あくまでも、お父様に忠実でありたいという、私個人の信仰からくる信条によるものであり、最終的には、現在の家庭連合も、三男の方も、七男の方も、お父様の手のひらの中におられると思うからです。
現在展開されているこの三者の分裂問題は、お互いに石を投げ合っているとしか思えない状況下にあります。この姿がお父様のご心情に叶ったものとは決して思うことができません。
この三者が、お父様のご心情を共通として、石を投げ合うことを抑制し、投げ合うことをやめて、自己の痛みの問題を他者に転嫁する行為を即刻やて王道に立たなければなりません。
それができれば、原理軌道に沿って次の道が必ず見えてきます。
家庭連合の信徒達、三男の方、七男の方が受けている心情蹂躙の痛みは、復帰摂理歴史が残した最後の「恨の塊」であるとしか言い様がありません。
「平和の主人、血統の主人」からみても、この「恨の塊」を解放する術は、お父様の聖和の意義を真正面から受け止めて、お父様の「摂理的な死」と向き合う以外にはないと思います。
一日も早く刀を鞘に納めた者が、真の王者です。
三者がお父様のご心情を中心としていれば、必ずそのような日を迎えることができると信じています。「平和の主人、血統の主人」にも「黙示録」にも、そのような一日を迎えることができると記されています。
お母様が責任を果たしていないという理由で、それを明らかにすることは大変に重要ですが、だからと言って、私達がお母様を讒訴して打つことが、果たして、天の御心なのでしょうか。お母様の問題はお母様お一人の問題ではなく、私達一人一人の問題でもあるはずです。
これ以上、お母様を打つことは決して天の御心ではないはずです。次の聖句は私達がお母様に対する姿勢を示していると思います。
ヨハネ 8:1-11
8:3 すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、
8:4 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。
8:5 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。
8:6 彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
8:7 彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、 「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
8:8 そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
8:9 これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
8:10 そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
8:11 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。
お父様もお母様のことで、この聖句と同じようなことが展開されたなら、イエス様と同じように答えられたと思います。