共産党曰く・・・『俺んちの家庭連合の連中だって笑っているぜ。』・・・《 ⑭-1 》「火」「硫黄」「雷」とは・・・・

原理講論
総序 新しい真理の必要性について
「かつてイエス御自身が直接話されたように、例えをもってではなく、だれしもが共通に理解できるように、「あからさまに」解いてくれるものでなければならない(ヨハネ一六・25)。このような真理であってこそ初めて比喩と象徴によって記されている聖句を、各人各様に解釈することによって起こる教派分裂の必然性を止揚し、それらを統一することができるのである。」

ところで、きょうはお前さん、何を言いたいんだ。」
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(1)27ヶ所も記されている「火」とは何だ??
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「火」の答えは原理講論にある。
原理講論 第三章 第三節 (二) 「ヤコブ書三章6節に「舌は火である」と言われたみ言からすれば、火の審判は、すなわち舌の審判であり、舌の審判は、すなわちみ言の審判を意味するものであるから、火の審判とは、とりもなおさずみ言の審判であるということを知ることができるのである。」
「火」とは「御言葉」のことである。
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「火」の代表的な聖句
3:18 「そこで、あなたに勧める。(霊的に)富む者となるために、わたし(イエス様)から火(み言)で精錬された金(永遠に変わらない原理)を買い(心情の精誠を捧げて手に入れ)、また、あなたの裸(偽りの言説、金銭欲、名誉欲、権力欲)の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい(真の愛を求めなさい)。また、(自分の罪が)見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい(悔い改めができるように御言葉求めなさい)。」

あんたたちの原理講論の総序には比喩と象徴を全て明らかにする新しい真理が統一原理だって言ってんだからね。解いてないだろう。忘れるなよ。「つるぎ」も「杖」もそうだ。みんな笑ってるぜ。』
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(2)「つるぎ・刀・こん棒・銃剣」も「杖」も御言葉、言葉をあらわしていた
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「火」は「つるぎ」や「杖」と同じように「御言葉」をあらわしている。しかし、「御言葉」のあらわれかたの違いによって使い分けられている。
例えば、
「火」は「御言葉で信徒たちの心が復興する(燃える)」とき、「心が燃える」時に使わている。
「つるぎ」は「神様の御言葉とサタンの言葉の戦い」のときに使われている。
「杖」は「御言葉でこの世を治める権能をあらわす」ときに使われている。

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(3)他に、「硫黄」「雷」等も「御言葉」をあらわしている
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1)「硫黄」=「御言葉を聞いても悔い改めようとして、悶え苦しむ様子」 「硫黄」は本来無臭なのだが、化学反応起こして異臭を放つように、堕落人間が「御言葉を聞いても悔い改めようとして、悶え苦しむ姿」を「硫黄の異臭」に比喩してあらわしている。
2)「雷」=「聖霊の役事」 「雷」は、「聖霊の役事」が「雷」の性質に似ていることから、このようなことが起こることを「雷」と比喩して使われている。
即ち、【「雷」は雲に静電気がどんどん溜まっていって、その静電気が高圧になって我慢できなくなった時に、一気に地に電気が放電される】現象なのだが、「聖霊の役事」もこの様なあらわれ方をするので、「雷」と比喩している。
比喩と象徴の多くは自然現象や人間世界に多く展開されている題材を用いている。当然と言えば当然のこと。
上記の【 】を具体的に表現するとこうなる。少し面倒だか・・・。
【「雷」は雲(聖徒たち)に静電気(聖徒たちの精誠条件)がどんどん溜まっていって、その静電気が高圧になって(その条件が最高潮になって)、我慢できなくなった時に、一気に地(サタン世界、現家庭連合)に電気(審判の役事)が放電される(解き放たれる)。】
3)今の時代は「雷」が鳴り響く前の静けさだ
今の時代は、正に、この「雷」が私たちの頭上で鳴り響く直前にある時代だと言える。何故なら、完全に原理基準が崩壊しているにもかかわらず、家庭連合に徘徊しているサタンの力が先行している時代だからだ。
共産党曰く・・・「お前はオカルト的な人間だな。俺んちの家庭連合の連中だって、このブログを馬鹿にして笑っているぜ。」
次回は、この続きになる。
追記
この様なブログは、読まれる方も本当に大変だと思う。それもそうだが、書き上げる方も、少し大変だね。書き上げながら、新発見なんて言うことも結構あるからね。
読者の皆さんに飽きられないように、どうしたら、少しでも理解しやすく、更に、興味を持って頂くか、苦心するところです。吾輩としては、継続的テーマとして取り組んでいくことに変わりはないので、楽しみながらやります。「継続は力なり」となるように、楽しみながら取り組んでいく所存です。







