原理講論「再臨論」が間違っている理由が分かりました。
私はこれまで、下記の御言葉(A)、《 御言訓読と霊界動員 p.93 》を読んだとき、お父様の「間違いを正当化する強弁だ」と捉えていたことが思い出されます。
お父様が不自然な死と思える聖和を遂げられた後、「平和の主人、血統の主人」と「黙示録」の考察を進めている時に再臨論を読んでいました。その時、予想もつかなかった問題に出くわすこととなったのです。
それは、お父様が不自然な死(摂理的な死)を遂げられたが為に、「再臨論」の間違いが見えるようになったことでした。
そして、間違いに気づいたばかりではなく、間違って記さざるを得なかった原理的観点も見えたことに大変に驚きました。
再臨論の間違いがお父様の死によって浮かび上がってきました。
そして、お父様の「強弁だ」と捉えていた下記の御言葉が、そうではなく、私達の責任分担に対して干渉できないというお父様の立場があられたが為に、再臨論も黙示録も「小羊の婚宴」が成就した立場で記されていたのです。
御言葉(A)
《 御言訓読と霊界動員 p.93 》
『「原理講論」は、劉協会長が書いたのではありません。一ページ一ページすべて鑑定を受けたのです。私が許諾しなければ、それに手を出すことはできません。
もし間違って書かれていたとしても、軽視すれば引っ掛かります。何のためにそのように書いたのかを知らなければなりません。経典は、絶対視しなければならないのです。
「明らかに間違っているようなのに、なぜそのように書いたのか」と言う人がいます。
それは全体を見たとき、そのように書くようになっているからです。
そのように書くべきほかの事情があり、飛躍せざるを得ない内容があったということを知らなければなりません。そのように考えなければならないのです。
それを理解できずに、自分が分からないことは「間違っている」と考えています。
しかし、原理は千年たっても変わりません。』
(人間の責任分担があるが故に、再臨論、黙示録は人間の責任分担が全うされなければならない時代に記されていましたから、「小羊の婚宴」はみ旨からみて成就したとして終えていました。
しかし、未だに「小羊の婚宴」は成就していません。)
《 真の御父母様の生涯路程 4 第七節 五 》
「経書は絶対視しなければなりません。「確かに間違っているようだが、なぜそのように書いたのか」と言う人がいます。それは全体を通して見る時、そのように書くようになっているためです。そのように書くべき事情があり、飛躍せざるを得ない内容があったということを知らなければなりません。そのように考えなければなりません。」
黙示録についてもう少し・・・・
① 《「再臨論」 第二節 (三)》では、黙示録1:7「彼を刺しとおした者たち」の「刺しとおした」を文字のまま「殺した」と理解するのではなく、「メシヤは苦難の道を歩む」と解釈せざるを得ないと記されています。
しかし、お父様の死の事実は「平和の主人、血統の主人」からみても、「刺しとおされた」死だったと言えるのです。(これは摂理的観点からの考察であって、「安楽死」云々のことではありません。)
② 「七つの封印」は本来は再臨主が解くべきところを、《『再臨論』「第三節 イエスはどこに再臨されるか」(二)イエスは東の国に再臨される》ではイエス様が解いたとあります。
私達はこれまで、「七つの封印」を原理講論と思っていたかも知れませんが、原理講論以外でお父様が「七つの封印」について記されている御言葉は一つもありませんでした。
また、黙示録10:4では、「七つの封印」の中身はヨハネには伝えられましたが、再び封印されてしまいました。この封印されたものとは、まだ私達には真実を知らない「小羊の婚宴」のことをヨハネは見たのだと思います。「七つの封印」とは七つの壁からなる「八定式」なのかどうか、参考までに、一番下に御言葉(B)を紹介しますが、この件は、後日詳細に取り上げます。)
問題となるのは、「七つの封印」を再臨主が解いたとして黙示録を読んでいきますと、再臨主は「刺しとおされて」死を遂げられたことになることです。
その聖句が次の五カ所出てきます。
この聖句はイエス様ではなく、お父様のことだったのです。
5:6「ほふられたとみえる小羊」
5:12「ほふられた小羊こそは」
13:8「ほふられた小羊のいのちの書に」
過去の記事も参考にしてください。
《 お父様の「死」により、黙示録の解釈が激変する! 》
御言葉(B)
天聖経 「真の父母」 四 四)
「 サタンは、それがメシアの責任であることを知っているのです。それで、すべてのサタン勢力を総出動させて、真の父母を攻撃したのです。それで、先生は、サタンの塀(縦横の八段階からなる七つの壁)を壊すことを、個人から家庭、氏族、民族、国家、世界、霊界まで経てきたのです。メシアは、この道をすべて経なければならないのです。
これが、我々の教会の歴史です。サタンに対して、いつも原理をしっかりと掲げてきたのです、愛をもって。サタンの血統を受けて堕落した父母として始まったことを、どのように人類の真の父母の位置として復帰させるか、ということに苦心したのが神様の立場だというのです。
それで、一九六〇年に父母様の聖婚式が、歴史上に初めて起こったのです。堕落した父母から(「小羊の婚宴」に向かって)復帰が起こったのです。イエスが来たのは、アダム・エバが堕落したことを復帰するためのものなので、イエスができなかったことを(再臨主が)全部代わりにしなければならないのです。(一三一・七〇)」