① お父様の「死」は「摂理的な死」である!
お父様の不自然に見える「死」に対して、誰も問う必要がないとしている家庭連合の姿を、絶対に容認 してはなりません。 この様な姿勢では、イエス様の十字架の死を「神様のみ心であった」として、自らの責任を放棄 し、神様の悲しみから遠ざかったキリスト教の姿と瓜二つになってしまいます。
神様の悲しみを偶像化で見えなくしたキリスト教は、まさに、現代の家庭連合の姿!!
栄光のお父様だけを捉えて、お父様の悲しみを表現しなくなった家庭連合はキリスト教に酷似している。
このブログは、お父様の「死」が不自然に見える「死」であるから、病室でお父様の最期に立ち合われた方たちの中から、その真意をもっともっと聞き出して、その責任を割り出そうとすることではありません。
矛盾しているようにもみえますが、亨進様が「安楽死」ではないとする声明を表明されたこと は、私からみて、千金の価値があると思います。しかし、「安楽死」とは別にして、摂理的な大所高所に立って、サタンが背後にあっての「摂理的な死」について考えることは、今後、絶対に避けることは できないと思います。
このブログの目的は、不自然と見えるお父様の「摂理的な死」をとおして、神様とお父様のご心情を探し求める ことにあります。
そしてもうひとつは、黙示録1:7に『彼を刺しとおした者たち』と記しているのは、お父様が亡くなら れた時から黙示録が始まっていることをあらわしていると思いますので、それらを読者の皆様にお伝えして、その是非を 問いたいと思っています。
(このブログ、今の時代だから見えてきた、「平和の主人、血統の主人」と「黙示録」によって3D画像のように、ようやく見えてきた摂理展開を紹介しています。更にこの先の未来が見えるのは、今のところ視界20キロさきなのか、1000キロ先なのか判然としません。このブログ、途中で視界ゼロに陥って空中分解するかどうか、慎重にして、ドキドキものです。)
お父様の不自然と見える「死」は、お父様ご自身が、1945年、み旨を歩み始められたその以前から、七度の牢獄も、最期の聖和も、お父様は既に知られ ていたと思われます。
お父様はキリスト教が不信することによる興南苦役とか、清心病院での闘病18日間も、そしてその「死」も全て知っておられた
何故ならば、黙示録は再臨主が聖和(逝去)されたところから始まっているからです。
定められた蕩減の道を定められたように歩まれたお父様だったのではないでしょうか。
馬鹿馬鹿しいと思われるお方もおられること、覚悟して書いています。でも、ご判断はまだ、早い と思います。もう少しお付き合いください。
お父様はサタンを自然屈服させるために、八段階に横たわる七つの壁を越えるために、七度に 渡って死の淵を越えなければならなかったことは、全てご存知だったのではないでしょうか。全て、語ることのできなかった、緻密な青写真があってのことだったのだと思います。そうで なければ、天宙復帰など、絵空事だと思います。
お父様は、サタンを自然屈服させるためなら、愛するご両親も、愛するご家族も、愛する子女様 も、愛するお母様も、愛する信徒たちも、全ての基盤も、藁一本も残さないという不退転の決意 で供え物とされたのです。
家族全員を北において南に・・・・
そして、最後は、全ての責任をとられ、18日間、13本の管が射されたまま、一言も語られずに、 ご自身の命を捧げて逝かれたのだと思います。
まさに、この世の偉大なる将軍が何人集まったって、お父様のようにはいきません。
お父様の最期の姿は恐ろしいまでに、イエス様の姿と完全に重なっています。
むごいまでのイエス様の最期はお父様の最期と重なります。
病室で過ごされた18日間、13本の管が射されたまま、お父様が「死の祭壇」で過ごされた長い時 の流れは、一体、何をあらわしていたのでしょうか。
「お前は死んでいなくなれ!」という二人のユダの囁きにサタンが侵入して、お父様は18日間、サタンに命をゆだねられた。
18数はサタン数の6数を三段階を象徴していると言えます。13数は子女様+お父様の数です。
この18日間の苦闘は神様とサタンの境界線上にあって、サタンを自然屈服させるために、むごく、痛ましい姿で、神様に孝行と絶対服従を示す期間でもありました。 更には、愛する家族、愛する子女様、愛するお母様、愛する信徒たち・・・、蕩減ゆえに愛する 者を鬼となって幾度も突き放さなければならなかったことに対しても、お父様は全責任をとられたのだと思います。
サタンはイエス様を越えたお父様の真の愛の力の勝利を認めざるを得なくなり、その愛を享受することを認め、お母様に対しても、子女様に対しても、サタンは完全に主管することができず、また、イエス様の体はサタンによって奪い去られて行方不明ですが、お父様のご遺体を手厚く葬ることをせざるを得なかったのだと思います。
イエス様とは対照的なお父様の聖和式
しかし、サタンは最後までお一人の方を葬儀に迎え入れることに対しては抵抗したのです。この方こそ、黙示録に登場する再臨主の『彼』ではない、もう一人の『彼』となります。
黙示録に登場する二人の『彼』こそ、地上摂理の最終局面において、最もサタンに翻弄されるという、お父様自ら血の祭壇に上がられながら、更には、ご子息の『彼』をイサク献祭として供えられるという、二重の十字架を全うされたのです。
もう一つ、ご子息の『彼』には、お父様の二重の十字架と同じように、家庭連合から追放される十字架と同時に、もう一つの十字架が『彼』には与えられていました。それは、次回のブログとします。
特に、神様とお父様とサタンだけが知っている、むごい蕩減の道 (愛の八段階)に追いやらなけれ ばならなかったお母様に対して、お母様が越えることは針の穴をラクダが通る以上に困難であっ たことは、神様もお父様もサタンも知り尽くしていたと思います。 この様なお母様に対してお父様が捧げることができる真の愛の姿こそ、サタンに望まれるままに 過ごされた18日間であり、お父様が自ら作られた最後の「死の祭壇」だったと言えると思います。
全てが供え物となられました。
ご家族、ご子女様、お母様、信徒たち・・・、これら全ての痛み、哀しみ、そして、彼らの心情の 底に積もってきた全ての恨み、これらの全てを、お父様は罪人のような姿で、一身に背負われ、ご自身の「死の祭壇」に乗られて、真の愛で悉く燃やされ たのだと思います。
ですから、私たちは、家庭連合とは反対に、お父様の不自然に見える「摂理的な死」の意味を絶対に問い続けなければな らないと思います。