お父様の「死」により、黙示録の解釈が激変する!
黙示録の1:7の「彼を刺しとおした者たち」について考察
黙示録の1:7の「彼」は再臨主をあらわしていることはお父様もそのように語られていますから、誰もが知るところです。
1:7
見よ、彼(再臨主)は、雲に乗ってこられる。
すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。
また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン。
① 次にありますように、「再臨論」には1:7の「彼を刺しとおした者」を苦しい解釈であることを記しているところがあります。
再臨論・第二節・(三)
『・・・それゆえに、ここでいっている「刺しとおした者」というのは、どう考えても比喩として解釈する以外にはなく、イエスが雲に乗って来られると信じていたにもかかわらず、意外にも彼(再臨主)が地上で肉身誕生をもって再臨されるようになる結果、それを知らずに彼を迫害するようになる者たちのことを指摘したものと見なければならない。このように、「刺しとおした者」を比喩として解釈するほかはない・・・』
上記のように、再臨論では再臨主を「刺しとおした者」という聖句を再臨主を「迫害した者」として、比喩として「解釈するほかはない」と記しています。
どうしてこのような少し苦しい解釈をしなければならなかったのでしょうか?
② その答えは原理講論の「予定論」第二節にあります。
第六章 予定論 第二節 み旨成就に対する予定
神の創造目的は、人間がその責任分担を完遂することによってのみ完成できるようになっている。したがって、この目的を再び成就させようとする復帰摂理のみ旨は、絶対的なものなので、人間は関与できないが、そのみ旨の成就に当たっては、あくまでも、人間の責任分担が加担されなければならない。
「再臨論」は洗礼ヨハネ的人物が責任分担を果たさなければならない真っ只中にあった時代に記されたためでした。即ち、「(再臨主を)刺しとおした者」が決定的になる前の段階の時代に記されたために、比喩として「解釈するほかはない」と記したのです。
この「予定論」から「刺しとおした者」をみていきますと、イエス様と同様に洗礼ヨハネに当たる人物の責任分担が果たされなければ、お父様は「死」に追いやられてしまうことを意味しています。
③ それでは、お父様が既に他界された今日、再臨論ではメシヤが生きて「小羊の婚宴」をなされると記されているが、果たして、復帰摂理の終局的な願いである「小羊の婚宴」は全うされたのでしょうか。
その答えは、「いいえ」です。
イエス様とお父様は真の愛をとおして神様に帰ろうとされて、完全にほふられた供え物になられたのです。
黙示録 19:9
それから、御使はわたしに言った、「書きしるせ。小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである」。またわたしに言った、「これらは、神の真実の言葉である」。
④ この「小羊の婚宴」こそお父様とお母様が天の基準で入籍して、天に対して婚姻届けを提出することになっていた、2013/1/13「基元節」だったのです。お父様はこの日をどれほどお待ちになっていたことでしょう。
⑤しかし、残念ながら、お父様の終局的な願であった「基元節」の四ヶ月前に、お父様は風邪を引かれて、これを悪化させて肺炎を誘発させ、あろうことか、突然、他界されてしまいました。
(自己主管を座右の銘と言われたお父様としては、自然死が事実とするなら、実に嘆かわしい限りになります。)
文鮮明自叙伝 第二章 涙で満たした心の川
「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」これは、その頃の私の座右の銘です。先に身心を鍛錬してこそ、次には国を救い、世の中を救う力も持てる、という意味です。
私は、食欲はもちろん、一切の感性と欲望に振り回されないで、体と心を自分の意志どおりにコントロールできるところまで、祈りと瞑想、運動と修錬によって自分を鍛錬しました。そこで、ご飯を一食食べる時も「ご飯よ、私が取り組む仕事の肥やしになってほしい」と念じて食べ、そういう心がけでボクシングもし、サッカーもし、護身術も習いました。
おかげで、若い頃よりもかなり太りましたが、今でも相変わらず体の動きだけは青年のように身軽です。
本当にお父様が自然死だったら自己主管できなかったことになりますから、まさに最期の姿はこの御言葉に自ら砂をかけることになります。
⑥ このお父様の突然の「死」は、一体何を意味しているのでしょうか。何も問う必要がないことなのでしょうか。決してそうではありません。何故なら、復帰摂理の終局的な願いである「小羊の婚宴」が、13000ページからなるお父様の御言葉を時系列にして読んでも、どこにも成就したという御言葉を見いだすことができないことは天宙的問題といえるのです。
⑦ それどころか、反対に、「小羊の婚宴」である「基元節」を天の基準でなすことができないということが理解できる御言葉がはっきりと数カ所に語られています。
最後の遺言とされた「天地人真の父母定着実体み言宣布天宙大会」の御言葉も見いだせません。
家庭連合が「完成、完結、完了」したとする解釈は、全体の文脈を無視した、全く幼稚としか言い様がない間違いを犯しています。
⑧ ということは、初めに記した、黙示録1:7の「彼を刺しとおした者」は全く違った解釈になることを意味しているのです。
即ち、お父様が生きておられた時に、洗礼ヨハネ的人物の責任分担を果たさなければならない真っ只中にあった時に印された再臨論だったから、『「刺しとおした者」を比喩として解釈するほかはない・・・』と記したのですが、お父様が他界された今日、「刺しとおした者」の意味は、文字の通りに解釈できる可能性が出てきたことを意味しているので
す。いや、可能性ではなく、その如くになったと言えるのです。
最期は、お父様もイエス様のようにほふられた小羊になられたのかも知れません。
⑨ これが一体何を意味しているのかは、ある程度、お父様の死に関して不自然さを覚えていた方なら、理解するに十分だと思います。そして、黙示録に新しい光が当てられて、お父様が「小羊の婚宴」を地上ではなせずに、なんと、他界したところから黙示録の第一章が始まっているという、驚天動地、全く新しい挑戦が始まるのです。
⑩ 黙示録は二重に三重に暗号が重ねてあるのかも知れません。
Today's World Japan 2011年1月号 35ページ
2010/9/3
「ますます近づき、三年六か月以内ににけりをつけなければなりません。サタンが自白書を書いて公文を発表するまで、天地が正されて神様の絶対王権が始まることはできません。
その時間までも説明して越えることができる操作を可能にするこの時間を持ったというのです。
驚くべき参席者の、悲運ではなく喜運の歴史を、千世万世、神様の代わりに、父母の代わりに(ヨシュアとカレブの顕進様と亨進様が)任せられた責任として担わせてくれたというのです。」