顕進様を評価するな!!評価する人々が責任持たなければいけません。
(文鮮明先生御言葉選集 609-152 2009.3.9)
昨日、私が束草で会わなければならないことを約束して解決しておいたのです。顯進がどこへ行ったの? 来た? 「来ませんでした。(お母様)」 顯進が出ていったのを呼び入れましたが、父の言葉を立ててくれたことをありがたく思います。
その場で自分がこのような団体に会わない(意訳すると「団体で働かない」)と言って出て行きましたが、呼び入れて自分が言ったことが間違いであったと、現場で解けと言いました。それでも父の言葉に従おうとしました。体面に関わらず、全ての人たち、公的な会合で父母様と約束して会った人々の前で間違ったと言って拍手で歓迎して座らせました。(609-151 2009.3.9)
見てください(意訳:考えてみなさい) 相反することをここにいる人々が会って評価するなというのです。評価する人々が責任持たなければいけません。先生を通して行く道を皆解決したのにそれを否定すればどうなるのですか?それを否定するという人が悪いですが、そこに答えて応じてあげる人も先生が決定したことを否定する立場に立つので二つとも除去されなければならないのです。
そのように純理的な環境を通して作って置いたので、逆理的な環境基準が二つ(二人?)にあれば二つとも処断してしまわなければなりません。永遠に統一教会の門の前に足も踏み入れられないようにしなければいけませんが、その場まで行かずに皆善意の拍手をしたのです。顯進が踵を返す時拍手で歓迎する立場に立って、私が出て行く時呼び止めて手をつないで挨拶させて出て来たのです。
ですから皆さんに会う必要がないためにここに集まれと言いました。皆さんのなかで残念な思いがあれば(意訳:残念な思いを持っている人がいれば)、私にきて話せというのです。顯進とアボジの問題は問題になりません。そのような問題は我々にあり得ないので、根本がそうなる道を行かないことができるように全てしたというのです。