ほふられた小羊

1. お父様が地上で成される最終目的は『アダムを再創造』することだった。
2. 『アダムの再創造』に必要な条件はお母様がお父様を主管する『主管性転倒式』という摂理だった。
3. 『主管性転倒式』とはお母様がお父様を主管することによって成された『聖和』である。
4. 『聖和』によって『アダムの再創造』が完成した。
5. お母様が絶対信仰の基準が立てることができないことを予め知っておられたお父様は、
 神様王権即位式の前日に「死の前倒し」という条件をもって即位式を挙行された。
6. その為、神様王権即位式以降から12年の延長期間のお母様はサタン側の堕落したエバの立場に立つことになった。
7. 12年の延長期間において、お母様は信仰基準を立てることができないことから、お父様は真の相対(新婦)を失うことになり、自ら聖和された。
8. イエス様の死が摂理の大転換となったと同じように、この『聖和』が摂理の大転換点のとなっている。
9. お父様の七年の大患難時代(2013-2019)が今年で終わります。そして、コロナ災禍で始まり、ウクライナ問題の真っただ中にある2019-2025年までが世界的蕩減時代になっています。さらに、2025-2031年までが世界的贖罪時代となります。そして、これ以降、お父様がこの地上に臨まれる時代圏が到来しようとしています。
 さらに、お母様が80歳以降に入るとお母様の終焉が迫っています。

⑤四大心情圏と三大王権  (女性修) 1993.12.21

⑤四大心情圏と三大王権  (女性修)  1993.12.21


 1993年12月21日 韓国・済州研修院


四大心情圏についての公式的な骨子


 四大心情圏について話しましたか? (まだです)。チョークは? (先生が題目を板書される)。これは、何と読みますか? (四大心情圏と三大王権)。何の意味ですか?


 周藤君。(はい)。四大心情圏について、ちょっと話してください。公式的な、骨子だけです。(はい)。よく聞きなさいよ。

 (それでは、「四大心情圏」について、簡単に骨子だけをお話し申しあげます。四大心情圏は、元々神様が創造の理想として持たれた構想理想をいかにして実体化するかという、その基本的な神様の計画であります。そして神様ご自身も、自分の中にいかなるものを持っていらっしゃったとしても、環境という相対圏を持って、その授受作用によらなければ喜びがありません。だから、その爆発的な喜びを経験するためには、どうしても、神様ご自身の性相と形状を実体化しなければならないという基本的な原理があるのです。


 したがって神様は、その中心として人間を創造されました。そして、神様の元々の構想理想では、アダムとエバを、神様の中において双子の兄さんと妹として構想され、それが具体的に誕生して、アダムとエバがこの地上に実体の、子女として展開しました。そして、それがさらに、環境と授受作用して成長して、アダムとエバそれぞれに、基本的に四つの愛、すなわち第一心情としての子女の愛、第二心情としての兄弟姉妹の愛、第三心情としての夫婦の愛、第四心情としての父母の愛という、この四つの心情を完成することを通じまして、それを一点において一挙に完成させて、神様もそこに同時に参加して、爆発的な喜びを体恤するという構想理想を神様は持たれました。


 そしてそのために、まず子女の愛が成長し、そして兄弟姉妹の愛、さらに夫婦の愛となってきますが、その子女の愛、兄弟姉妹の愛、夫婦の愛は離れたものではなく、それぞれ一直線上に連続的に存在するものであります。そして子女の愛の基盤の上に、兄弟姉妹の愛が成長し、兄弟姉妹の愛の基盤の上に夫婦の愛、最後に父母の愛という四つの心情圏が、アダムとエバが初めて夫として妻として一体化する初愛の瞬間に、一挙に完成するようになっていたのです。そのようなアダムとエバの結婚によって、子女の愛が完成し、兄弟姉妹の愛が完成し、夫婦の愛が完成して、さらに父母の愛が出発できる条件が成立するのです。その一点にまた、同時に神様ご自身も降りてこられて、神様も共に同じ経験をするというのです。


 そして、このアダムとエバの結婚の時には、実に全世界のプラス・マイナス、陽性実体・陰性実体が一体となるその瞬間であり、天使界も共に賛美する瞬間であり、そしてさらに、神様ご自身もそれに参加するのです。そのような意味において、神様の性相と形状がその時、同時に一つになるのです。


 しかし、神様の性相と形状が一つになることが内的に優先し、それが原因であり、その結果として、人間のアダムとエバが一体化するというのです。そういう意味において、神様がいつも優先し、先行しますけれども結局、アダムとエバの結婚のその時は、実に神様ご自身の結婚式でもあるのです。そして、その結婚によって、アダムとエバ両者は相互完成して、神様の愛を占領し、同時に神様もそこで完成するという素晴らしい理想なのです。その中心点がすなわち、四大心情の定着点であり、その一点が正に神様の住みたもう場所であり、それが至聖所であり、また同時に三宮すなわち、真の愛の本宮であり、真の生命の本宮であり、真の血統の本宮であるというのです。そこに永遠なる愛というものがあり、神様と人間が縦的横的な愛において完全に一体化して、永遠の基準となり、そこから具体的に神の永遠なる家庭、永遠なる氏族、民族、国家、世界、天宙、地上天国、天上天国が出発するという理想の一点となるのです。


 ですから、その愛の一点こそが重要なのです。しかし、堕落によって、そこにサタンが侵入したというのです。ですから、その至聖所を本当に守らなければならないのが私たちの立場であります。そしてそこから生まれる新しい生命は、神様がアダムとエバを創造した時に投入した基準を経験し、さらにまた神様が人間を愛する愛の基準を、自分の子供たちをすべて無私の愛で愛することによって体恤して、神様と同等の実体となっていくのです。そのようにして結局、人間は見えない神の実体として、第二の神として、第二の創造主としての立場に立つことができるのです。


 こうして神の構想理想が四大心情の定着点において完成するというのです。正にこれは天地創造の秘密であり、そして最高の中心点がその一点であり、それによってこの四つの心情圏が完成するのです。しかし堕落によって、それを失ってしまったのです。ですから、それは真のアダムによらずしてはできず、特に女性は真のアダムを通じて今、初めてそれを復帰できるのです。すなわち、お父様によらなければ、この四大心情の復帰の道がないということです。その素晴らしい恵みを私たちは今、この場所でもって受けているのです。どうも、ありがとうございました)。(以上で周藤先生の説明が終わる)



四大心情圏は、神様の心情圏を完成するための標本


 (先生が黒板に図―1を書かれる)四大心情圏は、(人間始祖が)堕落した以降の問題ではなく、堕落以前の神様の心情圏を完成するための標本です。テキストです。「万民は、こういうような公式的基準によって天国に入る」という、その標準的な公式です。そういうようなことです。神様は無形実体なのです。形は見えないのだけれど、実体を持っているのです。無形実体の神様は、性相と形状をもっており、愛を中心として一つになっていたのです。


図-1


 いくら愛を中心として、その体内で一つになったとしても、心臓の中で鼓動がたくさん動いていても、感じないのと同じです。一つになった場合には、相対的に感じることが難しいので結局、相対的な存在をつくることによって、衝撃を受けるのです。すごく爆発的衝撃を受けるのです。だから、相対と向かい合うことによって、作用が始まり、それがどんどんどんどん深くなって、愛という力が生まれるのです。


 それでアダムとエバは、結局、神様の見えない姿そのものを全体的に表示して、実体化しようとするのが創造の目的なのです。実体化したその目的は何かというと、愛の相対のために、愛を完成するためです。その内的な愛が、外的な相対を中心として一つになることによって、衝撃を受け、衝撃を受けることによって、それは高い喜びを感じるのです。


 結局、神様の見えない実体がアダムとエバによって展開されるのです。そうすると、神様の無形実体内で、神様自体も一遍に大きくなったのではないのです。だんだんだんだんと大きくなってきたというのです。一遍に大きくなったということになれば、それは大変なことになるのです。すべてのものは、小さいものからだんだんと大きくなるのです。


 だから、神様自体がずーっと成長してきた内容を中心に、それをさらに展開しようとするのです。それは子女として、子女の形で、子女の心情、それから兄弟(姉妹)の心情、夫婦の心情、父母の心情という四大心情を中心として展開するのです。神様自体がそういう過程を通過してきたのだから、それを表面的に実体として展開していくのです。それは子女の立場で始まるのです。子女がどんどん大きくなって兄弟(姉妹)になり、兄弟(姉妹)が大きくなって夫婦になり、夫婦関係でもってある期間を通過しながら、父母になるのです。その内容のすべては、神様がずーっと成長してこられた内容を実体的に表示したものであり、だから神様自体が、どのようにして大きくなってきたかということを、アダムとエバを通して実体的に体恤するのです。


 君たちも奥さんになってみて、夫婦生活して、子供を生んでみるというと、その生まれた子供は男であり女であったとしても、自分たちの過去の姿であり、大きくなったお父さんお母さんの第二の表示体として体恤するのです。子供たちを見ることによって、自分の妻が過去にあのようにして大きくなってきたということを知るのです。娘はむしろお父さんに似ているのです。しかし主にお母さんを中心として、再びそれに似せて合わせて見ることができるのです。


 男の子は自分の夫の過去を思い出させるのです。大概、男の子の性格はお父さんに似るし、女の子はお母さんに似るのだから、その子供たちを通して、自分たちの過去を再び展開して感じることによって、自分という実体をはっきり分かるとともに、子女を中心として、その愛の刺激によって、どんどんどんどんと自分の内的覚醒、外的覚醒がなされていくのです。


 子供を育てていくことによって、いろいろと内面的な喜びが拡大していくというのです。そのようにして、人は子供を生んで、それが兄弟(姉妹)となり、家庭においては、兄さんと妹になるのです。兄さんと妹として育って、ここから別れてくるのです。



第一に子女の愛


 神様と子女は二重になっているのです。男と女、二重に展開して別れてくるのです。男は男なりに、女は女なりに完成に向かって、別れた立場で成長していかなければならないのです。女は西のほう(A)、男は東のほう(B)にやって来るのです。(先生が図―1を示して説明される)ここが二重に(C)、神様を中心としてずーっと降りてくるのです。子供を生んで、その子供が大きくなることによって、いつも父母を中心として関係を持つようになるのです。子供は父母によらなければ習うところがないのです。父母を中心として大きくなるのです。お父さんお母さんを中心として、子供たちはすべてを習うのです。だから、大きくなるためには、いつも父母を中心とした関係で成長していくのです。これが幼稚園時代、小学校時代、中高等学校、大学時代と成長していくのです。


 神様の見えない無形実体の中には、第一に子女の愛があったのです。(先生が黒板に図―2を書かれながら説明される)その子女の愛がどんどんどんどん大きくなって、プラスして兄弟(姉妹)愛となり、さらに大きくなってプラスして夫婦愛となり、これがまた大きくなってプラスして父母愛というように発展してきます。子女の愛よりも兄弟の愛が大きくなっているのですが、どういうふうにして大きくなったのかというと、アダムとエバが兄妹愛を考えるとすれば、エバはお母さんが愛するアダムとして、まず、お母さんを中心として考えるのです(A)。お母さんが愛する兄さんにプラス、自分(の愛)となるのです(B)。エバはお兄さんを思う時、直接に思うのではなく、まずお母さんがどういうふうに兄さんを愛するかということを中心として、エバ自体も、それに伴って愛するのです。こういうように、二重になるのです。


 アダムも、お母さんがエバを愛する愛に、自分の愛を加えるのです。こういう関係です。だから兄弟愛は大きくなっていくのです。このようにしてだんだん大きくなって上がっていくのです。兄弟愛の次に、夫婦愛とは何かというと、父母を中心として、自分たちはそれまで兄妹同士としてやってきたのですが、ずっと父母が上がっていくというと、こちらは霊的には下がってくるのです。良心的にはこれで四段階です。これは相対的になっているのです。これはずっと上がっていくというと、これはずっと下がってくるのです。こういう関係です。


図-2



 結局、これを見れば、ここで(C)初めて霊界と二重になるのです。(先生が図―2の縦の二重の点線と線、横の二重の点線と線を示しながら説明される)


 これが子女の愛、兄弟愛、夫婦愛です(D)と。この夫婦愛になるというと、ここを中心として神様が二性性相として一つになって、自分たちを育てたと同じように、父母の立場にある父母の内的性相と形状が実体として成就していくのです。そうなるというと、こちらがこう近づくとともに(E)、こちらも(F)どんどんどんどんと近づくのです。最初には子女の愛、それから兄弟愛、夫婦愛というように、だんだん近づいていって最後にはどうなるかというと、実体的にこれもこうなって、それらがどんどん近づいて、これがみんなこのように合うのです(先生が図―2の中央の(G)に向けて矢印を、上下左右から書き込まれる)。これも下がって、こういうふうになるのです。有形実体がだんだんだんだん上がってくることによって、無形実体もだんだんだんだん下がってきて、上下が一つとなるのです。結局、神様は見えないのだけども、こういうような形で実体を中心として、実体がここで上がってきた場合には、無形実体と合うように近づくというと、アダムとエバも実体的に、こういうふうにして四つが、良心的、これは肉心的に、こういうふうにして、ここ(G)を中心として一つになるのです。


 だから、ここにおいて二重になるのです。これも(上)ここ(下)も二重になって、ここ(G)で全部が一つになるのです。分かりましたか? 神様を中心としてずーっと人間(子女)を成長させて、ここまで(D)(D')を連れてきて、神様の見えない実体がこのように上がっていって、ここ(G)まで戻るというと、アダムは実体として、ここにいて相対的になるのです。ここ(全体)は二重ではないのです。ここ(G)が二重になっているのです。どこで二重になるかというと、これがどんどん近づくことによって、(有形)実体がここ(G)に上がることによって、この見えない(無形)実体は下がっていって、全部が同じように相対的になるのです。こっちから実体のアダムとエバがそこ(G)まで行くと、神様もずーっと上がって、アダムとエバがこっちに来るというと、神様もこっちのほう(G)に来られて、良心基準をプラスとして、マイナスとして一つになるのです。


 これは何かというと、結局、神様の内的な見えない心情圏、四大心情圏なのです。子女の心情圏、兄弟の心情圏、夫婦の心情圏、父母の心情圏が一体どこで完成するかというと、四つが別個に完成するのではなくて、これらを一つにまとめなければならないのです。では、どこでこれを決着させて一つにするかというと、結局、子供の完成を通して、子供の完成は兄弟の完成であり、兄弟の完成は夫婦の完成であり、夫婦の完成は父母の完成となるのです。その完成の終着点、決着点は一体どこかというと、子供を生んで育てる目的も、兄弟を成長させる目的も、夫婦の関係をもって一つになる目的も、みんなそれが別個になっているのではないのです。それを一つにまとめないといけないのです。そこが一体どこかというと、アダムとエバが、結婚するその初夜の愛の関係を結ぶことによってすべてが完成するのです。分かりましたか?



子女愛、兄弟(姉妹)愛、夫婦愛、父母愛


 神様が無形実体として、アダムとエバを教育しながらずーと引っ張り上げてきて、ここまで(図―2の(G)を参照)上がるというと、アダムが実体になって、これがこうなって相対になるのです。これが二重になっていくのです。これが二重です。これは霊的な心、内的な体と同じです。心身一体です。どこで一体になるかというと、ここです。(図―2の(G)を示されて)それで神様はずーっと上がっていって、神様に似た実体として、これは下がってくるのです。こういうようにして、実体の相対になるのです。これ((G)の左側)は心と同じで、これ((G)の右側)は体と同じです。ここで初めて二重になるのです。有形実体と無形実体、良心の立場と肉体の立場とが一つになるのです。


図-3




 それで夫婦の愛というものは、今までの兄弟愛にプラスさせるのです。お父さんお母さんと同じ愛ではないのです。(先生が黒板に図―3を書いて説明される)夫婦愛は兄弟愛よりも大きいのです。それから夫婦の愛よりも父母の愛が大きいのです。これは神様と一つになっているからです。神様と人間が一つとなって子供をプラスさせるのです。夫婦愛に子供が入るのです。子供をプラスさせて、父母の愛になるのです。これは子女の愛に、父母を中心として二重になるのだから、兄弟の愛は子女の愛よりも大きいのです。兄弟愛よりも夫婦愛が大きいのです。夫婦が一体になるのだから一つになるのだから、兄弟愛よりも夫婦愛が大きいのです。それから父母の愛は、その夫婦の愛に子供がプラスされるのだから大きいのです。


 このように、だんだん大きくなっていくのです。そのすべてがどこで結実するかというと、結婚の初夜の夫婦関係においてです。愛を中心として夫婦が一体になることによって、神様が内的に要望した子供の心情、兄弟の心情、夫婦の心情、父母の心情が完全にその一点で結ばれるのです。分かりますか? (はい)。


 夫婦というものは、夫婦二人きりではないのです。このように見た場合には、この連結体です。夫婦というものを考えて見た場合には、自分が神様の娘であるし、また、夫は神様の息子であるというのです。それはまた、神様の子女であるけれども、自分の兄さんであり、自分の妹であり、それが大きくなって夫婦になるのです。ですから、夫婦の愛というのは、兄弟愛とは違うのです。直接、男、女が一つになるのです。男が完成するし、女も完成するのです。兄弟愛は、男完成と女完成にはなっていません。分かりますか? それは、夫婦愛によって、半分半分の男と女が完成するのです。


 兄弟愛では、男、女が一つになることはないのです。だから、愛から見た場合に兄弟愛よりも、夫婦愛が大きいのです。分かりますか? いくら夫婦愛といっても、その夫婦愛には、子供は絡んでいません。夫婦愛の中に子供がプラスされ、子女愛というものが加わるのです。だから夫婦愛よりも大きいというのです。そのような概念を入れなければならないのです。子女の愛の場合には、父母と関係を持っていないのです。だから、それが一番小さいのです。父母を中心としてアダムがエバを考える時、父母が愛するエバに自分の愛をプラスさせるのです。だから大きくなるのです。


 それでエバもアダムを考える時、お父さんとお母さんが愛するアダムの基準の上に、自分の愛をプラスさせるのです。だから子女の愛より大きいというのです。夫婦の愛は兄弟愛よりも、半分半分の男女の完成を結ぶ愛なので、これは、さらに大きな愛です。だから、それは兄弟愛よりも大きいのです。兄弟愛では、男、女の完成はなされません。分かりましたか? (はい)。父母の愛には、子供が入るのです。だから夫婦愛よりも大きいのです。そこには縦的、横的関係が結ばれているのです。


 そして子供を生むということは、神様が創造した時のすべてを体恤するためであり、子供を生むことによって、神様が四大心情圏を体恤したと同じように、子供を生んで育てて、それが結婚まで、二世の完成圏までいくことによって、アダムとエバの時と同じように、子女の関係、兄弟の関係、夫婦の関係、父母の関係を再び完成させなければならないのです。だから、こういうように循環運動をするのです。アダムとエバも、結局子供を生んで、神様が創造した内的心情圏のすべてを体恤するというのです。アダムとエバがそういう心情圏、四大心情を体恤することによって、神様のすべてが完成されるのです。


 そういうような無形実体の神様が、それを中心として性相・形状が長い間、愛でもって一つになっていった時に、それは人間をつくり出したと同じように、夫婦生活を中心として一つになった上に、無形性相の神様の中にある形状・性相が愛でもって一つになって人間を創造したと同じように、夫婦関係は無形実体の神様の性相・形状が愛でもって一つになっていると同じ立場です。その中から時間を経て万物を創造したと同じように、夫婦関係を持つ期間の上で、時間性を経て子供が生まれてくるのです。


 子供が生まれてくれば、実体のアダムとエバは、無形実体の(神様の)性相がアダムであり、その形状がエバなのです。それが一つになったとすれば、それは(神様が)アダムをつくったと同じように、実体のアダムとエバが愛でもって一つになって再び子供を生むようになるのは、神様がアダムとエバをつくったと同じことを繰り返すことになるのです。分かりましたか? だから、神様がアダムとエバをつくる時の喜びを、実体の相対なるアダムとエバも同じように、実体的に子供を生んで体恤するのです。子供を生むということは、神様が創造して喜んだすべてのことを人間に伝授して、体恤させるように授けたことなのです。



人間は神様の第二の相対圏


 子供を生むことによって、女も男もみな非常に立体的な思いをするのです。新しい世界が自分たち二人の中から生まれてくるのです。お母さんとして、子供を身ごもった場合には、もう大変です。立体的な構想、思い、考えが広く高くなるのです。結局、見えない神様のすべてを見えるものにして、全体に展開していって、その相対位置に立てたのは何のためかというと、愛の完成のためです。愛を中心として、神様と相対共に同じ刺激的な喜びを体恤させるために創造したのです。分かりますか? (はい)。神様と共にです。この話は、神様ばかりではないのです。相対的だから、主体と客体が一つになるのです。愛によって一つになった場合には、主体だけが喜ぶのではなく、客体も喜ぶのです。だから神様は主体であって、人間は客体であって、それが愛の相対の立場に立って愛する時には、神様と同じような喜びを持つのです。分かりましたか? (はい)。それを体恤させるために人間をつくったのです。ありがたいことです。


 だから人間は結局、神様の相対者としてつくられたのです。神様はなぜそれを必要とするかというと、前にも言ったように、内的一体圏の愛では刺激を受けないのです。あなたたちも心臓の鼓動をいつも聞くことができないと同じように、外的に一体となれば動きも感動も、外的にそれは体験できないから、刺激的な喜びを拡大させるために、相対的に展開せざるを得なかったというのです。分かりましたか? (はい)。


 結局、夫婦というものは、存在のすべて、過去、現在、未来を完成させるその中心点にあるということです。アダムとエバの完成は神様の完成であるとともに、子女の完成なのです。子女を生んで、また完成体を成すのです。無形実体の神様の中間のアダムとエバを中心として、その子供を中心として、過去、現在、未来の三代圏をつなぐのが夫婦の愛というのです。その夫婦の愛が失敗した場合には、過去の愛の因縁が失敗するし、現在はもちろん、未来の基準も失敗圏に落ちるというのです。


 こうなった場合に、旦那さんは何かというと、神の無形実体圏にあった性相が男であり、形状が女だったのです。その男と女が愛でもって一つになっていた双子なのです。双子だから通じるようになっているし、一つになれるようになっているのです。男、女は別々に生まれても、会った場合には一つになれるようになっているのです。教えなくても一つになるような引力作用があるのです。


 その双子を展開したのがアダムとエバです。神の無形実体圏で性相と形状の一つになっていたものが分かれて生まれてきたのだから双子と同じなのです。旦那さんが元々、双子であったということを考えたことがありますか? そのことを今からは知らなければなりません。ずーっと昔、双子であったのです。夫婦という因縁は、アダム・エバの双子でもって、こういうふうにアダム・エバから始まったということは、これはもう否定できません。それから、その双子が兄妹になるのです。


 神様から見た場合には、それは子女の関係なのです。縦的には神様を中心としての子女関係なのですが、横的に見た場合には、兄妹関係なのです。それが横的に大きくなるために別れていくのです。女の行く道、男の行く道です。女として完成し、男として完成するためには、二人共にいたらいけないのです。別れていくのです。女は女の方向へ、姿を見ても女なりに完成するために勉強し、男は男なりに完成するために勉強するのです。だから、互いに向かう方向が違うのです。男はものすごく外的で、活動的で、それから発展的ですが、女はそうではないのです。内的で、それは活動的ではないし、それは発展的ではないのです。保守的な立場なのです。


 そういうふうにして、だんだん大きくなって、別れていくのです。そこは二重ではないのです。二重の関係は父母を中心としてつなぐことによって、二重になるのです。父母を中心として兄妹は一つになるのです。だから、幼稚園時代から小学校時代、学校によってみんな違うのです。それで、だんだん習っていくのです。そして結局、最後は何かというと、万物をすべて見れば、神様がアダム・エバに発展理想を教えるために展開されたものだというのです。万物を見ることによって、神様が創造した内的な性相が実体圏でもって一つになって、それが一つになることによって、どんどんどんどん、神様の成長してきた創造世界を体恤していくのです。神様の代わりに、みんな体恤することによって、神様の相対圏となるのです。


 人間は神様の大切な第二の相対です。平面的に相対圏として体恤できるのです。そうすることによって、相対の立場で見れば、みんな雄・雌からなっているのです。アダム・エバも当然、雄・雌が愛するようになれば、その相対的万物も愛するようになるのです。「みんな同じことをやっているなあー」と言ってね。だから、アダム・エバの理想を教えるために、理想的環境でもって、アダムとエバに刺激的な喜びを授けるために、すべてのものがみな、雄・雌で愛するようになっているのです。それを見て、アダムとエバも大きくなっていくのです。小さい時は何も分からないのです。そういう雄・雌の愛とか考えは、成熟することによって、「ああ、すべてを見れば男・女、雄・雌として、愛して子供を生むんだなあー」と、みんな習うのです。あなたたちもそうでしょう? 動物がみんな関係するのを見た場合に、「人間も、ああいうふうにしていくのだなあー」と、そういう好奇心からいろいろ聞いたり、勉強したりして、自分もそうなることをみんな考えるのです。


 だから、すべて周囲を見た場合に、アダムとエバも、初めはそう関心はなかったのですが、どんどんどんどんと、周囲の環境から関心を持つように教えられるのです。アダムも考えて、「ああエバも、内緒でもって、自分のあとから文句ばかり言っていたのに、エバというものは、ああいうような雌の立場と同じだなあー」と言うのです。ああいうふうにして関係を持つということをみんな教えられるのです。エバもそうです。「ああいうふうにして、アダムというものは結局、自分の相対になるべきだなあー」と考えるのです。そういうような考えで共に会うというと、昔と違ってくるのです。愛という力でもって、引力でもって、触ってみたり、連れて一緒に行きたいと思うのです。そういうふうに、だんだんだんだんと、一つになるのです。


 アダムとエバもキスしたのだろうね。(笑い)それもみんな、アダムとエバから始まるのです。アダムとエバの始めは神様と同じです。神様が良心の立場で、アダムは肉身の立場です。心身一体となって愛するのです。だから結局、実体の体がキスする前に、心が先にキスするというのです。二重になっているのです。


 結局、神様が二重の向こうで、アダムとエバが大きくなってだんだん近寄っていくというと、神様は下からずーっと中心に上がっていくのです。この実体が下のほうの相対圏なのだから、良心圏は上のほうに上がって、プラス・マイナスで結婚をすることによって、東西南北、前後左右、全部が一つになるのです。だから向こうから、こっちからアダムからエバ、エバからアダムに向かう時に、この上の良心も二重になるのです。そこから二重に始まるのです。(先生が両手でもって、しぐさされる)分かりますか? (はい)。



神様だに愛には絶対服従する


 ここまでは二重ではないのです。ここ(二一九ページの図―2(D)(D')を参照)に来るまでは、二重ではないのです。こちらから、こうなるというと、こうなるし、点が生まれてくるのです。そうすると、神様はここから無形実体で、子供を引っ張って、こっちから成熟して、ここまで(図―2(G))来た場合には、良心圏はこういうふうにして、神様はこういうふうにして(図―2の中央を大きなカッコで囲まれる)待つのです。待つ所にアダムとエバがこういうふうにして(図―2(G))に来た場合に、初めてドッキングするのです。


 心身が一体になるのです。だから、結婚の初夜というものは、神様の子女としての心情圏が完成するというのです。あなたたちも、父母としてそうでしょう? 子供を生んであなたたちも、その子供を育てていって、結婚させないと、完成したとは言えないのです。結婚でもってみんな完成するのです。


 だから父母の愛というものは、自分たち、男女二人だけではないのです。一家を代表し、一族を代表するのです。一族の過去、現在、未来の全体が入るのです。結婚して愛で結ばれるということは、神様の娘、神様の息子として完成していくことです。(その愛は)自分が持っているのです。だからそうなるというと、神様が、子供を愛する愛も持っているというのです。分かりますか? (はい)。兄弟愛、女として兄さんを持っているということは、神様が家庭において兄さんを愛する愛を持つように、すべてをつくってあるのです。分かりますか? 夫婦として愛し合うところには、旦那さんを神様が愛するという、つまり旦那さんの愛とともに、神様の愛が加わっているのです


 父母の立場で、自分の旦那さんがお父さんになっているとすれば、その中で子供を愛するとともに、自分の夫、旦那さんを愛するのです。二重の愛を自分が持つのです。そして、だんだんだんだん、プラスさせて、愛の圏を所有するようになるのです。そうすることによって、神様の全体の愛の内的、見えない素性を外的に見えるものとして、完全に受けもったのが旦那さんであり、奥さんであるのです。分かりますか?


 それで、離婚するということは、すべてを破壊させるのです。神様の愛する子供の愛とともに、神様の愛する兄弟愛、兄さんの愛、それから夫の愛とお母さんの愛、夫と子供の愛をみんな一遍に崩壊してしまうのです。大変なことです。それでも離婚ということを考えられますか? そうした場合には、離婚した場合には、エバと離婚したとすれば、男はどこへ行きますか? それは、心が定着する基地が完全になくなるのです。それは、神様の息子としても落第生だし、兄さんとしても落第生だし、夫としても落第生だし、父として落第生です。「夫をそんなに惨めにさせることのできる無情な女ですか!」と言うのです。


 男もそうです。神様の娘をあんなにぺちゃんこにして、妹をぺちゃんこにして、自分の愛の相対もなくなって大変なことです。子供を持たない時は、みんなぺちゃんこにしてしまっているのです。定着する基準が全然ないのです。さまよって、その姿も、形も、一方向きりで、止まるところがないのです。地にも定着基地がないのです。空に浮かんだ雲みたいに、風が東から吹けば西に行くし、西から吹けば東に行き、東西南北へ、浮いて回るような姿です。どこに定着しますか?


 だから夫婦の愛というものは、こんなに重大な問題なのです。夫婦の愛を結ぶということは、男女のすべて、子供から、兄弟から、それはもうすべて死ぬまで、幼いころから死ぬまでのすべての関係です。男関係、女関係です。社会の心情関係もすべてが備わっているのです。それが離婚すれば、みんなめちゃくちゃになるのです。結婚している者は手を挙げて! 旦那さんに対して、そういうことを考えたことがありますか、ないですか?


 愛が絶対になるには、一つしかないのです。二回求めてやることはできません。一回でもっておしまいです。それが絶対になるというのです。絶対自体は最初であり、最後なのです。神様は絶対なるお方だから、神様は有りて有る者であり、初めであり終わりなのです。その神様の愛の相対として定着する瞬間が、夫婦の愛を結ぶその瞬間なのです。男、女が愛の関係を結ぶことです。あなたたちもそうでしょう? 女として、男として、知り合った場合には関係を持つのです。関係を持ちたがるのです。そうでしょう?


 その門を初めて開くのが、結婚した最初の夫婦関係なのです。そうなれば、旦那さんのすべては女(妻)のものです。体から一切全部が女のためにつくられ、女のために生まれてきたのです。また、女は男のために生まれてきたのです。自分を主張する何ものもありません。


 愛を中心としては絶対服従です。いくら喧嘩をするようなことがあったとしても、愛を超えるものはありません。愛を汚す者は宇宙にないというのです。分かりますか? だから夫婦喧嘩で、愛を汚すようなことをしてはいけないというのです。喧嘩をしても、離婚とかそんなことを絶対に考えてはいけないのです。喧嘩は悪いことであり、サタンの行動のつなぎだと思うのですが、それが神様の愛を破ることにはならないのです。いくら血を流してもぶっかけ合っても、別れるということは駄目だというのです。喧嘩というものは、悪いことですが、悪が善の最高の位置にある愛を崩壊させることはできません。どう思いますか? いくら喧嘩をやっても、愛の心でもって平和を保てるのです。だから夫婦共に争うということで、愛の道を破壊することは絶対あり得ないのです。


 神様だに、愛には絶対に服従します。現代の神学の観点と、統一教会の先生の話す観点は違うのです。神様は絶対全能なるお方だから、愛を自由自在にすると思っているのです。愛までも屈伏させて、愛をけ飛ばしたり、投げたりすると思っているのですが、そうではありません。絶対なる神様だに、絶対なる愛には絶対服従するというのです。そうでなければ、神様は愛の相対をつくる必要はありません。刺激を受ける実体をつくった以上は、神様自体内で刺激を受けない愛よりも悪い結果になるのです。そうなったら、そんな創造などしなくてもよかったという結論になるのですから、自分がなしたことを後悔するということは、神様は絶対的な立場に立ち続けることはできないという結論になるのです。分かりましたか? (はい)。


 神様だに、愛の前には? (絶対服従です)。なぜかというと、愛というものは相対から来るものだからです。神様がいくら主体だといっても、相対がなければ、自分一人では愛を得ることできません。愛は相対から来るものだからです。その愛をもらうには、愛は流れるものだから、もらう所に下がらなければならないのです。分かりますか? 侍らなければならないのです。だから神様だに、絶対なる愛の前にはどうするかというと、愛は相対を通して、刺激として流れるものだから、それをもらうには、その下のほうに立つことによって、愛を受けられるのです。みんなもそうでしょう? 男もみんな、女に対して好きだった場合には絶対に服従します。(笑い)


 「何を言ってもやります」と言って、もう最敬礼でも、何でもするし、礼拝でもするというのです。それはなぜかというと、高い愛は相対からも来るのだから、それを願うのだったら、低いほどよいのです。だから愛の関係を持つ時は、共に敬礼して、敬った立場で愛さなければならないのです。どうですか、皆さん。


 それは敬礼をしなくても、心の中でちゃんと有り難く思いながら、「あなたがいなかったら自分はどうなるのだろう」といつも感謝しながら、つきあわないといけないのです。それを遊び半分にしたり、方便として関係するのではありません。自分の発展のためにするのです。分かりましたか? (はい)。愛の道を高次元に高めるために、そういう関係をするのです。だから関係する時には、日本のために愛するとか、世界のために愛するとかすれば、本当に、その中から日本が生まれてくるのです。世界も、その中から生まれてくるのです。神様の子供も、その中から生まれてくるのです。そうですね? (はい)。


 これは大変なことです。そんなに貴重なものを持ったとは思わなかったですね。(笑い)本当です。それで、いつでも座る時には、みんな聖別して座らなければならないのです。王宮、三大王宮の本郷地なのです。それで、みんな座る時には、聖別してちゃんと座るのです。勝手に座ってはいけないというのです。そんなにして生きてきましたか? かわいそうに、手荒に扱ったり、無価値のものとして扱ったので、泣いたでしょうね。それが泣くのだから、心身共に泣くのです。あの部署が喜べば心身共に喜びます。そうですか? 先生の話が合っていますか、どうですか? 合っていますか? 夫婦生活もうまくいかなかった場合には一週間もひびくのです。


 そんなに見ないでください。これは元の世界の教育です。堕落した世界ではないのです。この真の夫婦というのは、堕落以前の世界の神様の直轄圏でもって、サタンのいない所でいう話です。夫婦関係というものは偉大なものです。偉大なものです。偉大なものです。それはなぜかというと、それが一つになるというと、宇宙が震動するのです。神様がそれを愛するからです。そんなに価値のある人間であるということを考えてみなさい。そういうような思いを持って生きる人になったら、自動的に周囲から尊敬されるのです。このように、人間の価値が乱れるようなことはないのです。そのような尊いものもみんな失ってしまったのだから、動物扱いをするのです。だから、失ったすべてのものを再び挽回することによって、その尊い価値の生活がもとがえされるのです。分かりましたか? (はい)。



絶対信仰を持つこと


 それを蕩減復帰というのです。復帰しなければならないのです。その世界に再び帰るには、蕩減しなければならないのです。蕩減は反対です。悪魔が上で押しつけるのだから、反対にこれをずーっと抜き出さなければならないのです。それでサタンはすべてを持っているのです。家庭から氏族、民族、国家の巣を持っているのに、神様は何も持っていないのです。サタンの主管する国家基準を超えないというと、サタンはいつでも殺すことができるのです。


 そう見た場合に、神様がこのサタン圏内に入って、働きかけることは難しいのです。だから信仰、絶対的信仰が必要なのです。もしアダムとエバが絶対的信仰を持っていたならば、堕落しなかったのです。この地上において、サタン圏においては、絶対的信仰を持つことによって、アダム・エバを神様が自由に訪問して関係を持つと同じようになったのですが、絶対の信仰を持たなかったために、堕落圏が生まれてきました。分かりますか? だから絶対的信仰を持たないというと、堕落圏内にあるので、神様はその人に対して干渉することができません。もし、それができるとするならば、堕落する前にちゃーんと干渉して、堕落させなかったのです。そういう原則を中心として、サタンと神様が働きかけるのです。それは一般の人は分からないのです。そういうことが分かりますか? (…)


 絶対的信仰が必要です。神様を絶対信じる信仰を持った場合には、自分の生命がふっ飛ぶようなことがあっても、生命がふっ飛ぶというのは、サタン圏の生命のことです。サタンから継続された生命です。それを否認する以上の信仰を持った場合には、堕落しなかったアダムとエバを神様が自由自在に干渉して引っ張ってあげたと同じように、悪魔の堕落した世界圏内でも神様が干渉して働きかけることができます。分かりますか? 信仰基準がなかった場合には、それはできません。完全にサタン圏内だから、サタンがどうしようとも、干渉することができないのです。もし、干渉するとするならば、堕落の時に比べられて、長成(期)完成(級)基準では神様も干渉することができないようになっているので、すぐに讒訴されるのです。その圏内ではいくら殺してもいいし、神様も干渉できないのです。


 堕落とは、アダム・エバが死ぬ瞬間なのです。その死ぬ瞬間にありながらも、それを堕落しないように、それを守れなかった神様は、サタンがいくら殺したとしても干渉することはできません。たった一つ干渉できるのが絶対なる信仰なのです。分かりますか? 絶対信仰です。それは、みんな原則的に悪魔サタンと条約を結んだと同じようなことで、この条約に違反した場合にはサタンのものになるし、条約に合った場合には神様のものになるのです。だから祭物をさせて、条件の分け合いをするのです。


 真心をもって祭物を捧げて、神様がそれを受け取った場合には、サタンはそこからずーっと離れるのであり、真心を尽くさないで、神様がそれを受け取らなかった場合には、それをサタンが受け取るのです。はっきりしているのです。だから、絶対なる信仰が必要なのです。神様と共に生きることです。分かりましたか? (はい)。


 男女の愛がいかに偉大なものかというと、今までは、これはもう一番悪いことのように思って、三宮を破壊してきました。神様の愛の基地、神様の生命の基地、神様の血統の基地をみんな破壊してしまったのです。そのようなサタン世界の愛の関係というものは、悪魔の愛の関係であり、それで悪いことになっているのです。夫婦関係自体、結婚すべて、神様は喜ばないのです。独身生活をすればいいのです。独身生活をして、子供をたくさん増やしてはならないのです。堕落したアダムとエバが独身生活をして子供を増やさなかったらば、こんなに長い何千万年もの歴史はいりません。すぐに復帰できます。


 ですから真の父母が、神様の創造理想、四大心情圏を完成するために愛の相対圏をつくろうとして創造されたそのすべてを、神様を中心として成し遂げたのです。神様の目的の完成のためです。人間の目的ではないのです。分かりますか?(はい)。



相対は主体を喜ばせること


 神様が愛というものを中心としてつくったので、愛の相対は自分より高くなることを願うのです。そういう基準において、人間の価値も、元々は神様の愛の目的のためにつくられているのです。第一原因は神様なのです。分かりますか? 神様を喜ばせないといけないのです。相対は主体を喜ばせなければならないのです。なぜかというと、神様は何もない相対を自分の基準以上に上げようとして、どんどんどんどん投入したのだから、投入したものを返さないといけないのです。そういう面で、客体は主体のためにすべてを尽くさなければならないのです。同じく投入しなければならないのです。だから最初に投入したのが神様であり、すべての主体ですから、その主体が最初に喜びを得ないといけないのです。分かりましたか? (はい)。


 だから愛の問題も、生命の問題も、血統の問題も、神様を中心に第一主義として尊重するようになるのだから、愛の関係を持った場合には、その生命も神様につなぐし、愛も神様につなぐし、血統も神様につなぐ時、その相対が自動的に自分につながるのです。分かりますか? (はい)。


 あなたたちは兄弟として、父母の子供として、女として、生まれて育って、それでお嫁に行った場合には、自分の縁をみんな切っていくのです。父母の子女として生まれて、家庭内で兄弟としてずっと大きくなっても、女は別れていくのです。お嫁に行って、旦那さんの家系に入って考える時には、自分の兄さん、自分の本家には兄さんがいるのですが、それを忘れないといけないのです。絶対に自分の旦那さんを中心として、兄さんより以上に愛さないといけないのです。自分の故郷を振り返って、兄さんたちへの思いを持ってはいけないのです。一切を忘れて、忘れて、そこで生まれたことも、みんな自分の本家で忘れたと思うように考えないといけないのです。だから自分一人で勝手に、自分の本家や親族を、旦那さんとか家の人に相談せずに助けることはできません。


 女は男の相対としてつくったのです。そのような相対をつくった主体圏には神様もいるのです。大元がそこにいるのです。だからお嫁に行った場合には、神様と旦那さんが、大元が、長男と父が一つになって、自分を愛するのです。アダムは横的であり、お父さんは縦的関係です。だから舅をめちゃくちゃにすることはできません。神様の代わりなのです。自分のお父さんもそうです。神様の代わりです。そこに差異を持ったら駄目です。アダムの家庭のアダム・エバは差異を持つようになっていないのです。たった一つの家庭だからです。エバは家庭が二つになっても、差異を持つようになってはいけないのです。お嫁に行った場合には、それは向こうの人であり、向こうに接ぎ木された者は、行ったり来たりすることはできません。分かりましたか? (はい)。


 お嫁に行った女たちは、別個の生活をして、自分の本家を助けようとして、袋を隠し持つようなことがあったら大変です。本当です。自分の旦那さんや舅さんと相談してやればいいのです。それは、自分の相対の家庭です。旦那さんの家庭は主体、自分の家庭は相対の関係として扱ったらいいのです。全体でやるのです。自分一人でやったら、法的に引っ掛かるのです。それが分かった場合には、舅も旦那さんもみな、一家が喜ばないので問題になるのです。そういう原則がはっきりしないので、めちゃくちゃになっているから、それはもう大変です。どこのどんな土地がいいか、どんな土地が悪いか分からないのです。こういう原則のテキスト・ブックです。原則を分かるように、ちゃーんとしているのです。だから将来は裁判長も必要ないのです。家庭問題は、この原則によってすべて収拾可能です。


 国家もそうです。国家も、王様を中心として、閣僚たちもみな同じです。この原則で、国家も一つの最高の家族と思うのです。王様と女王様を中心として、それは家族と同じです。この原則によって合わなかった者は、すべて処理することができるのです。分かりましたか? (はい)。分かりましたか? (はい!)。


 自分のいかに尊いものが取り戻されていたかということを発見しましたか? 宇宙の、見える世界と見えない世界が、そこにおいて占領されていくのです。見える世界は旦那さん、見えない世界は神様です。そうでしょう、分かりますか? 女のそのものは、旦那さんのものであり、神様のものです。男もそうです。男のそのものは女のものであり、神様のものなのです。そんなことを考えたことはないでしょう? 地上天国、天上天国はそこから始まるのです。君たちの子供もそうです。同じことです。子供を生んだ場合には、地上天国の子供、天上天国の子供、アダム・エバの子供、何ら変わりはありません。同じ価値の子供を生まなければならないのです。分かりましたか? (はい)。男も女も、そこに侍りながら生活しなければなりません。


 しかし堕落した結果、すべてがめちゃくちゃになっているから、いくら男女関係が千年万年続いても、堕落血統内でやっているので神様とは関係ありません。神様も永遠に処罰する行動なのです。だからサタンは、すべて男女関係でもって崩壊し、めちゃくちゃにするのです。地獄です。地獄に落ちてめちゃくちゃになるのです。そして天国から永遠に離れてしまうのです。神様が復帰しようにも、探しても分からないように、何もできないようにしてしまうのです。分かりましたか? (はい)。


 だから方向転換をするのです。こう行った者が一八〇度転回しても別に変わりません。行動は同じ行動であっても、立場が違うし、方向が違うのです。それは南北の韓国を例に挙げれば、境界線を中心として、線を引かれていても、それは見えない線なのです。細い線の中間がまだあるのです。だから、別に変わらないのです。二つに割ったような立場であり、割ったものは、こっちのものも変わらないのです。



四大心情圏は愛のテキストブック


 だから愛といっても、天国の愛が別に変わるのではないのです。サタン世界の愛の行動と同じでも、感じるその深さが違うのです。アダムは、蘇生、長成であり。神様は蘇生、長成、完成です。長さが違うのであって、行動は同じです。だから、今までの男女関係はみんな悪いというのは、神様が関係することができないからです。分かりましたか? (はい)。


 原理の観点から見たら、真の父母を中心とした、こういう原理の内容をテキスト・ブックとした一体圏の愛というものは、サタン世界にはなかったのです。全体を代表した立場で愛しているのです。一族全部が、少年から、青年から、壮年を中心として老年に向かっていくその過程において、みんな愛の関係でつながっているのです。それは方向が違うだけであって、姿は同じです。だから、いかに方向転換をするかということです。分かりましたか? (はい)。


 ですから血統が違ってきたのだから、血統を転換した場合には、別の世界になるのです。血統が違うというと、それは東洋人は東洋人の血統があり、西洋人は西洋人の血統があるように、それが違っていくのです。サタンの血統と神様の血統として、違っていくのです。


 そう考えれば、女というものは尊いものですか、でたらめなものですか? 何があるから尊いのですか? 女としてのそれがあるからです。そこは、男の代表と神様が共に訪問するようになっているのです。それは本当ですか? 原理から見ても、それはもう避けることができないのです。だからエバは、それで長男と神様をだましているのです。そうなっているのです。エバのそれを失うということは、長男を痛めることであり、お父さんを痛めることです。アダム破壊、神様破壊です。不信感があるからです。父子をだましたからです。そうでしょう。長男とお父さんをだましたので、それを破壊しているのです。


 それが何かというと、内的なお父さんと外的な長男です。それが女を中心として、一つになるというのです。だから女の愛には、人間の愛と神様の愛が訪ねてくるというのです。男に対してもそうです。それは神様の二性性相の性相です。形状は女の姿です。神様の無形の形状です。実体のエバの形状は、旦那さん(の性相)と同じです。相対なる女王様が、長女が訪問するのです。だから結婚は男占領とともに、神様占領なのです。男占領のために自分が完成されるし、神様占領のために人間もそれ以上望めない。絶対の希望なのです。男女完成とともに立体的な完成を願うので、立体的な完成までも成されるというのです。だから、結婚は神様と宇宙を占領するためであるというのです。皆さん、そう思いますか? そんなこと知りませんでしたね。(笑い)落第品です。(笑い)


 これは重大な問題です。四大心情圏で、四大心情の花が咲くというのです。だからそこには、子女が植えられ、兄弟が植えられ、それから旦那さん、夫婦が植えられ、父母が植えられるのです。そういうふうにして、二世はそのとおりに大きくなって、同じように何代も繰り返すのです。公式的に、みんな神様の型と同じようになるのだから、みんな神様の子女として、神様の家族になるのです。真剣な話です。若い女の子たちはこういう話を聞けば、幸福です。そのように生きたとしたら、大変なことです。


 こういう観点から世の中を見た場合に、サタンも話にならないのです。サタン以上です。そういう者に、自分の一身を裸にして任せるということは――。何の話か分かりますか? 何の話か分かりますか? 重大な話です。君たちには想像もつかないような話です。歴史以来初めて教える内容です。


 だから、四大心情圏を完成することによって、自分も子女を愛することができます。子女を教育することができるのです。それは兄弟を教えることを主体として、夫婦は、子供を結婚させてやることによって、訓示することができます。自分がまた父母になってみて、自分の孫を教育することができます。それは、別個に別れてはいません。全部が一遍に決意すれば、それはすべてが種からずーっと芽が出て、そして、大きくなって一生涯のすべてが縮小して入っていくと同じように、愛という圏内には、子女、兄弟、父母のすべてがつながっているのです。ですから、四大心情を体恤しないというと、人間として、男、女として、完成した人間にはなりません。分かりましたか? (はい)。


 それがくっつくことによって、神様の友達になり、神様と一体になるのです。四大心情圏が何か分かりましたか? (はい)。愛のテキストブックです。祝福家庭は、愛を毎日、毎日、吟味しながら、その境地に向けて修養し、自分の欠けた所をみんな調整しながら、あれの一体圏になって、あの門を通過しなければ、神様の前に出ることはできないということです。


 そういうふうに考えれば、自分たちの夫婦生活はどうですか? それは、話にならないね。この基準で考えた場合に、自分たちの夫婦生活というものは何の価値もないのであり、神様から見た場合には、砕いてしまいたいような、悪いことをやってきたということです。それが分かりますか、分かりますか? (はい!)。分かったと言う女の子たちは手を挙げてみなさい。(はい!)。後ろのほうはどうですか? (笑い)


 それで、みんなその基準に一致するように努力しないといけないのです。真剣なことです。「いやあ! 男はそんな立場か? 女はそんな立場か? 神様も完成し、人類も完成する!」。そうでしょう? それが本当だったら、大変なことです。神様であるからあんなことを考えるのであり、平等な神様だからあんなことを考えるのです。あなたたちは先生の話を何でもないように聞いているのだけど、その内面を打ち明けた場合には、大変なことがたくさんあるのです。さあ、これは難しいことだけど、努力してあの基準に到達するように努力いたしましょう!(はーい)。はーい。ありがとう。(笑い)


 まあ、先生一人によって、こういうことが発表されることによって、全世界が影響されることを考えてみなさい。家庭内に影響されて、大変な革命が起きてきます。先生だに、この問題を中心として通過しなければならないのです。だから文先生、真の父母はいったい何かというと、神様の子女として、心情的に完成したものでなければならないというのです。そういう面で、お母さんに聞くのです。「あなたは大丈夫ですか?」と。(笑い)お母さんはお父さんに「大丈夫ですか?」と。それに及ばなかった場合には、「共にあすに向かって発展しましょう!」と。そういう励ましをして、その家庭で、どんなに難しくても、あの踏み台を踏み越えなければならないのです。


 だから真の父母になるには、神様の子女としての子女圏の完成体に、家庭内の兄弟としての兄弟圏の心情完成体に、夫婦においての心情完成体に、父母においての心情完成体にならないというと、真の父母になることはできません。分かりましたか? (はい)。


 ですから一心不乱に、共に協力して、その目標に向かって突進しない以上は、いい加減にはなされません。精誠を尽くすことによって可能になる道です。分かりますか? (はい)。だから旦那さんというのは、この現代世界の愛の王様です。そんなことを考えたことがありますか? 真剣なものです。みんなそういうような立派な旦那さんを願いませんか? (願います)。みんな、そうなっているのです。願う必要はないのです。そうならなければなりません。みんな、そうなっているはずです。真の愛に関係して、神様の血統を受け継いだとするならば、そういうようなことは教えなくてもなるようになっているのです。堕落したから、こういう教えを強調して、それに向けるように鞭打ちながら、追っていかないといけないのです。それは悲劇です。それは喜劇でなくて悲劇です。分かりますか? (はい)。では、奥さんは旦那さんの何ですか? 愛の女王様です。みんな、そう願うのです。みんな、「あなたの希望は何か?」と言うと「女王様になりたい」と。女王様になって何を言うか! 国ではないのです。ナンバー・ワンは愛です。全部、そういう欲望以上の基準に立つことができるようになっているのです。分かりましたか? (はい)。


 人間の欲望、欲心は、もう絶対に夫婦完成をしないと完了できないというのです。もう既に完了された立場に立っているのです。先生が、こういうことを知ってがっかりしました。数十年の努力したことが、水泡になってしまったのです。みんな持っているものも外国を回って、宇宙を回って、天宙を回って、苦労したことがしゃくにさわってくるのです。もう、がっかりしたのです。堕落はこんなに恐ろしいものとは分からなかったというのです。全部、神様は授けています。そうでしょう。第一創造主が、人間を第二創造主として、子供を生ませることを通して、第一の創造主と同じような価値圏に置いたことは有り難いことです。


 さあ、四大心情圏が何か分かりましたか? (はい)。もう、それ以上は言わなくてもいいでしょう。(はい)。言いたいことは、たくさんあるのですが時間もないのです。



氏族復帰の命題


 人間の欲望すべてが、その基台、その基準において完成されるということです。それ以上の野望、希望はないのです。そうなれば、それは幸福ですね。それ以上の幸福はないのです。愛の王様と愛の女王様になるのです。自分の旦那さんは愛の王様であり、自分は愛の女王様です。それ以上は何もないのです。だから人間の欲望は即、自分に結ばれるようになったのです。それが分からなかったのですが、今はもう分かりましたね? (はい)。誰によってですか? (真の父母によってです)。真の父母ですから、真の愛の伝統を教えてあげなければならないのです。これを汚さないように、あなたたちに伝授してあげるのです。千年万年、後孫が幸福になるようにして、愛の王家の華々しい家系を残していくのです。そういうふうにしたくないですか? (したいです)。


 愛の女王様にみんななるのですね? (はい)。神様もそれを願うのです。あなたたちの後孫がどんなに幸福か考えてみなさい。「神様より以上、自分の父母のほうを愛します」。それでいいのです。神様より以上崇拝すると言っても、神様はそれを感謝します。自分のつくった手本がこんなにも歴史を超越して、実感として効果を成していくとはね。だから、そういう立場には信仰もいりません。分かれば宗教もいりません。たった二人で何万点です。ですから、完成期を中心としてつくったアダムとエバには、宗教も何もありません。学校も何もありません。自動的に習わなくても分かるようになるのです。こういう文明圏が、アダム・エバのその境地に到達するようになっているのです。真の愛は知らないことがないのです。真の愛は関係しないところがないのです。分かりましたか? 真の愛の元を適用すれば、すべてが解決していくのです。その愛の体験を忘れないようにしてください。分かりましたか? (はい)。


 あなたたちは夢でも、忘れない夢があるのです。それは自分の生涯に絶対必要な夢です。忘れる夢があるし、忘れない夢があるのです。それをずーっと活用して、自分の生涯にいかに適用されるか研究して統計を取りながら、自分の将来を正していかなければなりません。神様は必ず教えてくれます。統一教会の先生、父母は必ず教えてくれます。それはいろんな幻の中とか、夢の中とかに必ず現れて、その場合には自分のためであるということを思うのです。初めは話をしないのです。後ろ姿が見えるのです。それは信仰が遠いという話です。それで、笑いながら話しかけるような境地まで発展していかなければなりません。そうでない場合には、遠い立場にあることを示すのです。そういうことを体験を通して、はっきり分からなければならないのです。だから父母様に会ったりした場合には、それは良いことか悪いことか、表情で見分けなければならないのです。必ず教えてくれるようになっているのです。だから、成約時代は侍ることによって救われるのです。


 これが分かった場合には、先生はいりません。共にそういう夫婦になったとするならば先生はいりません。そういう自分の生きる環境をつくって、そこに住めば、地上天国、天上天国が自動的につながるのです。それでいいものを持った場合、神様に何の功なしにもらったのだから、自分たちも功なしに授けてやるのです。それは自分の親近の人からです。先生はこういう立派なものを持ちながら、自分の親近の者に対して、伝道することができませんでした。君たちは先生に対して氏族復帰という命題を持って立っています。先生はカイン・アベルを愛してから、全世界を超えて勝利圏を得ないというと、自分の一族を率いることができません。それは聖書の本然の教えです。カインが服従しないと、アベルは殺されるのです。いつも不安です。だから自分の一族が問題ではないのです。世界が問題なのです。


 先生のお母さんと先生の兄さんは立派な信仰者でした。啓示を受けて、弟がいかに有名になるか、それだけを信じていたのです。たくさんの兄たちや弟たちがいても、世界中で自分の弟が一番であるという、それだけしか知らないのです。それが啓示されて、それ以上は教えてもらえないのです。自分の弟が何者か分からないのです。先生はそれを成して教えているのです。分かりますか? 聞いて教えるのではなく、成して、完成させて、教えてあげなければならないのです。


 アダム完成は、神様の子供と共に完成した上でもってです。そこで、すべてアダムという価値が決定します。それと同じように、完成圏に立つアダムとして、地上のサタン世界にそれを正すには、自分が成し得ないでは、サタンは屈伏しません。分かりますか? それは、でたらめなものではありません。だから先生の話を聞くと、心から忘れることはできないのです。いつも心を占領しています。それは大変です。統一教会に入って、原理の話を聞いて興奮して体恤したその思いは絶対なくなりません。外に出ていっても、それは生きているのです。それが生きているから、先生が現れて、いつも関係を持つようにコントロールするのです。だから大変です。


 そうかといって、自分の一身体面上、反対した者は、ただ来るということはできません。口を開いて反対した場合には、それを取り消さないというと、良心は許しません。「この野郎! 何だ!」と。だから歴史上で、たくさん統一教会に入って、出て消えていった者たちは、先生を見るとみんな隠れてしまいます。何でそんな隠れることをしたのですか? また反対する者たちも、先生が前に来た場合にはみんな逃げていくのです。だから、悪辣なサタンもそうです。反対しながら逃げていくのです。正面から会って、自分で言うことはできないのです。


 こういう話をするのは、きょうで、もうこれが最後だからです。きょうで、五万一千八百名が完了するのだから、これで終わりです。あすになったら、君たちは、もう修練会はないのです。あすになったら、二千名の済州島の人々が集まるようになっているのです。


 今度、帰ったら何をしますか? 今、先生が話したことです。君たちは幸福だというのです。自分の親、自分の兄弟と抱き合って、痛哭しながら、この道を行かなければならないのです。それを語るのです。先生はこの道を探すために、痛哭した道がいくらでもあったのです。韓国では、冬になれば服の真ん中に綿を入れるのです。北韓なんか寒いから、そういう着物を着るのです。それが涙で濡れたのです。それを絞ると、水が落ちるようだったのです。そういう道を通過しないと、真理を探し出すことはできません。


 また、長い時には十七時間も祈ったのです。十二時間は普通だったのです。今はもう、祈祷する必要はありません。みんな分かってしまったから、成すことが忙しいのです。世界に相対圏をつくるので大変です。それで相対圏をつくって、先生の生涯の内で悪魔が数千年間、神様に背を向けて三宮を迫害してきたそのすべてをストップさせたということは、それは話にもならない奇跡なのです。分かりますか? それで先生に対して、すべての霊界がみな地上に向けて敬拝するのです。イエス様とか、孔子とか釈迦牟尼とかがです。この真の父母は一人しかいないのです。永遠に、過去にもいなければ、それはたった一人しかいないのです。分かりましたか? (はい)。


 そういう意味で、君たちが統一教会に入って、ふらふらしながら反対して、ほうぼうを回りながら、口々にいろいろと悪宣伝する者はどうなるか考えてみなさい。その先祖がみんなやられるのです。霊界では、後孫が反対することによって、先祖がみんなやられるのです。それで霊界に行ったら、どうしますか? 先祖が悪魔扱いをします。「この野郎! 先祖の功労によって統一教会に入ったのに、迫害して何だ!」と。総理大臣も、それは国家から預けられた祝福だけど、もし過った場合には牢屋に入るのです。即時にです。それと同じことです。総理大臣だからそうではないということはないのです。分かりましたか? (はい)。


 帰ったならば、自分の一家を早く収拾しなさい。先生はご父母様の墓の前に立って、「故郷に住んでいる北韓の二千万人を救って再び参拝するその時までは、まだ時が違います」と言ったのです。それを必ずやるというのです。先生には先生なりに、行くべき道があるのです。皆さんは帰ったならば、自分の親族圏を早く収拾していくのです。先生一人がそんなことはできないのです。しかし、君たちが父母、親族を解放することによって過去のつらさを、天はそれによって慰めるというのです。それが天の心です。自分の一代ではなく、全体が救われるという思いは、時を超えても同じです。分かりましたか? (はい)。


 だから長子権復帰を今、分かって、氏族復帰時代が来たのだから、真の父母の絶対権限を中心として、一直線に切ってしまうのです。親族解放を早くする方法は、いくらでもできます。自分が立って話をするのです。「こういうような道を、こういう内容の道を我々は辿ってきたのです」と。分かりましたか? (はい)。


 本当に、兄弟のために痛哭する時代になりました。真の父母のために、世の中のサタン圏内で一生の間にいかに傷つけられても、生涯を行っているということは大変なことです。こういう心情が分かった場合には、それが解放圏になるのです。いくら厳しくても、落第するようなことはありません。先生の生涯がそうです。個人的に見れば悲惨な生涯です。しかし、行くべき道は一つしかないことを知っているから、他のことは考えられません。


 そういうふうにして、ここまで上がってきました。日本も今、大変でしょう。五万人も済州島で教育したということで、みんな変わっていってしまったね。来た時の女と、帰る時の女とは違っていますか、同じものですか? (違いました)。本当に違ったのですね? (笑い)


 これで完全に頭が占領されたのですね。(笑い)それは、占領されていいのです。それ以上のことはないのです。向こうの悪魔が占領したのを神様が再び占領するのだから、元に返ることになるのです。元に返るのです。理想の国、理想の世界です。そこで理想の王様に侍りながら、万年、万々歳を叫ぶようなことになるのです。それは不幸ではありません。分かりましたか? (はい)。


 先生の生涯は、そのような苦労の道を克服してきました。悲惨な道をね。それは、先生よりもっと悲惨な神様を知っているからです。神様を知ったのだから、そういうふうにして行きましょう。そういうようにしたいという者は手を挙げてみなさい。(はい!)。ありがとう。



三大王権から縦的天国と横的天国が生まれる


 四大心情圏は、もう分かりましたね。次に、三大王権です。これは簡単なものです。これが、(先生が黒板の図―2の周りを何度も円で囲まれる)こうなれば球体になるのです。これが楕円形になったのだから、球体です。こう見た場合には、(先生が黒板に図―4を書かれながら説明される)神様、アダム・エバは、過去の創造主、現在の創造主、未来の創造主と、こうなるべきです。この縦的な結合を平面的に回すというと、(二五二ページの図―5を参照)こちらが神様の立場で、こちらが現在、こちらが未来です。なぜこうなるかというと、平面的に過去、現在、未来がやって来るからです。そう見た場合には、ここが神様の立場、これはアダムの立場、これは子女の立場です。分かりますか? これは縦的な立場で、これはアダム・エバを中心とした横的立場です。


 こう見た場合に、これが一つの家族に、おじいさんがいるし、これは父母です。アダム・エバには(真の)子供はいなかったのです。分かりますか? アダム・エバの子供はいなかったのです。だからアダム・エバは、創造主の体恤した喜びを相続できませんでした。子供がいなければ大変です。それでアダム・エバが子供を持ったような立場で話をするのだけど、本当は子供がいないのです。そうなるというと、これは神様です。現在、未来になるのですが、未来がなかったのです。分かりますか? 神様は、おじいさんを象徴します。一番年寄りのおじいさんは誰ですか? (神様です)。


 だからおじいさんの根っこというか、穂先というか、それがつながっているのです。自分の家庭に、天国の代表、神様の代わりとして送られてきたのが、おじいさんです。これが堕落しなかったとするならば、アダム家庭が王様になったとするならば、おじいさんは王様です。そうでしょう? アダムは現代の王様、子女は未来の王様です。そういうふうになるのです。


 だから王権を中心として見れば、過去の王権は神様なのです。アダムが現代の王権を中心として、これが一つになって、そこから移動していくのです。神様につくられたのですが、天国に子供として生めるのは二番目なのです。そうなって結局、王子たちを連れて天国に入るのです。実体世界で子供を生んで、永遠なる不滅の理想世界に移動していこうというのです。その神様の本然の世界がいかに素晴らしいか考えてみてください。全知全能の神様として、そこにすべてを備えているのです。


 霊界に行けば、そこは時空を超越しているのです。時間と空間を超越しているから、何千年の前の歴史が今なのです。何の話か分かりますか? 時間を超越しているから、何千年の歴史も今なのです。だから空間の無限の星の世界もみんな現在なのです。遠くないのです。分かりますか? 自分の感覚圏内にすべてが収まるのです。


 だから愛を中心として成そうとすれば、それは無限の世界を凌駕するのです。目の前で見るような思いで命令すれば、どこでも可能なのです。自分の家が、済州島にあったのだけどこっちに来て住んでいるとしても、何千万マイル離れたアメリカであっても、家を持ちたいとなれば、済州島の家がすぐそこにあるのです。分かりますか? 遠い所でもすぐそこにあるのです。そういうような便利な所であり、距離の感覚がないのです。空間の感覚もないのです。だから膨大なあの星雲世界、あの銀河世界も自分の一日の生活の庭園と同じなのです。


 それを考えてみなさい。だから果たせないことがないのです。そこには、車が必要ですか? 考えてみなさい。考えるよりも愛がもっと速いのです。そういう便利な世界です。そういう世界が分かった場合には、この地上には未練がないのです。制限や限界内で生きた者が、限界を超えて無限界の活動舞台に拡大するということを考えてみれば、それ以上素晴らしい、それ以上の出世はないのです。ですから、死ぬということは悲しいことではありません。分かりますか?


 そういう所へ行ってみたいですか、みたくないですか? (みたいです)。行ってみたければ、今晩でも死んでみなさい。(笑い)本当です。すぐに分かるのです。先生の言ったことを実感するような世界が生まれてきます。だから、よく準備して、完成して、あの世界に入らないと大変です。それで、美人たちが困るのです。自分の顔が天国より美しいと思うからです。自分が博士号をもらったことが天下最高、国よりも尊いと思うのだから、話にもならないのです。だから世の中では、末の時代には自分が最も愛する、最も貴重に思うものが、自分の行くべき道を妨げる第一の条件になります。


 これからは、世界が回れ右をします。一般の人々は回れ右の仕方を知らないのです。回れ右した場合には、自分がどういうような列に立つかということを知らないのです。それを知らないといけないのです。だから、地上における生涯は、あまりにも短いのです。先生からすれば、短いのです。先生が今、二十代だったら、今からの世界はいかばかり変化していくことでしょうか? ここまで来る年齢を費やしたとするならばね。世界が反対したのだからこうなっているのです。もし反対しなかったならば、天下は変わってしまっているのです。地上天国はできてしまっているのです。今教えているすべてのものは、もうみんな準備されているのです。今の氏族メシヤも、あの当時の全キリスト教界の信者が一つになって、全教会のクリスチャン十億以上の人々が氏族メシヤとして派遣されたと考えてみなさい。すぐ天国になるのです。分かりましたか?


 おじいさんは神様です。だから神様を象徴します。そしてアダム・エバは現代です。これをずーっと直系につなぐのです。これは縦的直系と横的直系としてつなぐのです。ここから縦的天国、横的天国が生まれてきます。分かりましたか? (はい)。横的にしたのは(先生が図―4の中央の横の線を示されながら)地上天国になり、これは(先生が図―4の中央の縦の線を示しながら)天上天国になるという意味です。横的に回してやれば、神様がこうなって、こうなるのだから、(先生が図―4の中央で十字を示される)これは永遠に続くのです。そうして、三代が一つのカテゴリーです。これは切り離すことができません。分かりましたか? (はい)。


 おばあさんたちも、三人が一つにならなければならないのです。おばあさんのおばあさん、そのおばあさんです。それから娘とか、嫁とか、三代が一つです。(先生が図―5を示されながら)切ることはできません。これは、直線を引くというと、一つ、二つではないのです。必ず水平線になるのです。垂直には水平線があるから三点です。一点、二点、三点。水平に引いても、一点、二点、三点です。それを切ったら、みんなめちゃくちゃになってしまうのです。分かりましたか? (はい)。



天国に通じる道


 三代を中心としてなぜ組むのかという問題になった場合には、これ一つでも切ってしまったら成立しません。だからこれを切って合わせることによって、それは構成されて完全なものになるのです。ですから、こう見た場合に、一、二、三(横的に)。一、二、三(縦的に)です。兄弟を中心に一、二、三とみんな三点でつなぐのです。蘇生、長成、完成と同じです。ですから一族において重要なのは、おばあさん、お母さん、奥さんです。この三代です。三代の子供が未来の奥さんになるのです。この三代が一つにならなければなりません。そこで一番重要なのが、おばあさんではなく、お母さんなのです。だから、その家ではお母さんを中心としながら、(自分の)奥さんが一つになっておじいさんを神様のように侍る伝統を立てなければならないのです。だからおじいさんの命令には絶対に服従しなければなりません。なぜかというと神様の代わりだからです。


 それを木に例えれば、年寄りが一番大きな木です。次がお母さん、自分の奥さんは三番目です。木は年がたてば、年輪が多くなるのです。太くなるのです。だから山では太く大きい木が主人です。分かりますか? これは、三つを切ることができないのです。三代が一つの家庭に住まなければならないという原則になるのです。東洋の家族はそういうような形式になっているのだけれど、西洋の家庭は縦がないのです。西洋文明というものは縦がないのです。これは外的、物質文明です。心的文明、精神的文明ではなくて体的です。横的は体を象徴します。


 こう見た場合に、統一教会では、おじいさんを神様のように侍った場合には、そのまま天国に通じます。そういうふうに侍って生涯を過ごした者は、霊界のどこに行っても邪魔なしに入れるのです。分かりますか? この基準が三代王権になっているから、王様みたいに侍れば、無事通過です。それから、自分のお父さんお母さんは、過去の王様を代表としているのです。アダム・エバは、現代の五十二億すべての家庭を代表した家庭です。だから現代のすべての家庭の中の王様、女王様が自分の両親です。代表しているという場合には、それは全体の中心になるのです。誰でも全体の中心、全体の最高の者になりたいと思うのです。ただし、それは代表した立場をいうので、代表するには全体においてあがめられ、尊敬されるような立場に立たないというと、全体を代表することはできません。


 オリンピックのチャンピオンなんかもそうです。マラソンで日本と韓国の選手が競争して、日本は負けましたが、それは国全体を代表していたのです。全体が一つです。そういう関係を持った者が代表です。それを、普通の人は、自分がそういうことをしないで、ただ代表を願うのですが、そうはいきません。そういうふうに、投入して投入して、頂上の山を自分がつくらなければいけないのです。その頂上に自分が立った場合には大変なことです。そのような基台をつくらなければならないのです。基台をつくらないでただ代表を願うのは泥棒です。分かりましたか? (はい)。だから、自分の家庭のお父さんお母さんは何かというと、王様と女王様です。全世界を代表した家庭の王様と女王様です。


 では、お父さんお母さんにどういうふうに侍るのかというと、全世界の家庭を代表した王様、女王様のようにです。それは本当です。地上天国の王様なのです。そうでしょう? 地上天国の中心の家庭だから、王様の家庭なのです。分かりますか? (はい)。おじいさんは天国の王様、それから自分の父母は地上天国の王様です。それは、みんな君たちもそういうようになりたいと、良心が願うのです。そのような代表的な立場であることを忘れたら駄目です。そういうふうに、地上に住んだ場合には霊界に行っても、その基準は平面的に同じ価値基準にみんなが、なるのです。同じ天国です。分かりましたか?


 これは地上天国、これは天上天国です(先生が図―4を示し説明される)。これは未来の天国です。未来は、天上天国と地上天国が合わさって、希望を持つのです。合わさった二つの国を相続して、未来の立場に立つというようになっているのです。だから神様にも自分の現実の父母のように侍らなければならないのです。神様は、永遠の国の王様の立場に立っているから、もっと尊重しながら侍らなければならないのです。そして、自分の親も神様と平等な立場で侍らなければならないのです。分かりますか? そういうように侍らなかった場合には、地上、天上両天国を相続することはできません。


 これは、アダムです。アダムは(真の)子供がいなかったのです。アダム・エバに子供があった場合は、こういうふうに天上天国と地上天国の二つの天国を相続するのです。そうでしょう? だから子供が一人であっても、その子供はお母さんの愛の結実体でもあり、お父さんの愛の結実体でもあり、二人の愛の結実体です。それと同じです。おじいさんと子供がそういう相対関係になった場合には、そういう二つの天国のすべてを相続して生まれた子供と同じだから、二重の価値を抱えているのです。分かりましたか?(はい)。


 だから、王権の生活をして、三大王権の心情を相続しなければならないのですから、必ず神様を霊的代表として、おじいさんを天の王様みたいに、自分の親は地上の王様みたいに侍ることによって、一体になっていけば、その王族は自動的に子孫に伝来していくのです。これが伝来すれば、それが循環運動でもって、こういう線が円形になって大きくなっていくのです。分かりますか? 点は同じです。一家庭から氏族、民族、国家に拡大していくのです。循環運動をするのです。こういうふうにして、王権が世界に拡張することによって統一の世界が成されるのです。それは、この三大王権の伝統的家庭の標本を拡大したものであって、標本の元というものは、本然の中心家庭であったというのです。これは拡張した内容です。


 だから、こうすることによって三大王権ができるのです。三大王権は、決して四大心情圏を除いてはできません。分かりましたか? (はい)。夫婦生活も同じです。おじいさんも夫婦生活、お父さんも夫婦生活、自分も夫婦生活、未来の後孫も夫婦生活、四大心情圏の上にこのような連体関係をもってなすのです。今まで夫婦生活は連体関係を持っていません。関係を持ったとしても、中心とか、上とか、下の関係を持っているだけです。一組の夫婦でよかったのですが、これから関係を組んで完成することによって、天上、地上、いずこにおいても自由の王権の権限をもって、生きることができるのです。分かりましたか? (はい)。将来は王権になるのです。民主主義は兄弟時代だから、ぶっかけ合うのです。


 さあ、これで四大心情と三大王権を終わりました。だから、夫婦生活は夫婦二人ではないのですね。分かりましたか? (はい)。それは、王権を相続する基盤なのです。それを果たせなかったら、王権も何もないのです。天国へ入るには、王権を相続して入るのです。


(全員起立。お父様に敬礼します)。(ありがとうございました)。(拍手)

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